宋名臣言行録 / 後集巻十四・徐積
年過壮未娶或勉之答曰娶非其人必為母病予非敢忘嗣固有待也以羅城君諱石平生不用石器遇石則避而不踐或謂先生曰天下用石多矣必避之然後為孝歟他日山行奈何先生曰此吾私迹則然吾豈固避之哉吾遇之怵然傷吾心乃思吾親不忍加足其上他日若有君命敢從私乎
新字:年過壮未娶或勉之答曰娶非其人必為母病予非敢忘嗣固有待也以羅城君諱石平生不用石器遇石則避而不践或謂先生曰天下用石多矣必避之然後為孝歟他日山行奈何先生曰此吾私迹則然吾豈固避之哉吾遇之怵然傷吾心乃思吾親不忍加足其上他日若有君命敢従私乎
書き下し
年壮を過ぐるも未だ娶らず。或るひと之を勉む。答えて曰く、娶りて其の人に非ざれば、必ず母の病と爲らん。予敢えて嗣を忘るるに非ず、固より待つ有るなり、と。羅城君の諱石なるを以て、平生石器を用いず、石に遇えば則ち避けて踐まず。或るひと先生に謂いて曰く、天下に石を用うること多し。必ず之を避けて然る後に孝と爲すか。他日山行せば奈何、と。先生曰く、此れ吾が私迹則ち然り。吾豈に固より之を避けんや。吾之に遇えば怵然として吾が心を傷ましむ。乃ち吾が親を思いて、足を其の上に加うるに忍びざるなり。他日若し君命有らば、敢えて私に從わんや、と。
現代語訳
壮年を過ぎてもまだ妻を娶らなかった。ある人がこれを勧めた。答えて言った。「娶ってその人が適当でなければ、必ず母の悩みの種となる。私はあえて跡継ぎを忘れているのではない。もとより待つところがあるのだ」。父である羅城君の諱が「石」であったため、生涯石の器を使わず、石に出会えば避けて踏まなかった。ある人が徐積に言った。「天下では石を使うことが多い。必ずそれを避けて、はじめて孝となるのですか。いつか山道を行くときはどうされるのか」。徐積は言った。「これは私個人の振る舞いとしてそうしているだけです。私がもとより避けねばならないというのではない。私はそれに出会うとはっとして心が痛む。そこで親を思って、足をその上に載せるに忍びないのです。いつか君命があれば、どうして私情に従いましょうか」。
解説
この章句が説くこと
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『呻吟語』内篇・應務・人の短を諱まずして又た之を訐く禍は人の私を體せずして又た之を苦しむるより大なるは莫し。仇は人の短を諱まずして又た之を訐くより深きは莫し。
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福沢諭吉小品集・瘠我慢の説・第2段すべてこれ人間の私情に生じたることにして天然の公道にあらずといえども、開闢以来今日に至るまで世界中の事相を観るに、各種の人民相分れて一群を成し、その一群中に言語文字を共にし、歴史口碑を共にし、婚姻相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、すべてその趣を同うして、自から苦楽を共にするときは、復た離散すること能わず。すなわち国を立てまた政府を設る所以にして、すでに一国の名を成すときは人民はますますこれに固着して自他の分を明にし、他国他政府に対しては恰も痛痒相感ぜざるがごとくなるのみならず、陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく、そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君愛国等の名を以てして、国民最上の美徳と称するこそ不思議なれ。故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といわざるを得ず。すなわち哲学の私情は立国の公道にして、この公道公徳の公認せらるるは啻に一国において然るのみならず、その国中に幾多の小区域あるときは、毎区必ず特色の利害に制せられ、外に対するの私を以て内のためにするの公道と認めざるはなし。たとえば西洋各国相対し、日本と支那朝鮮と相接して、互に利害を異にするは勿論、日本国中において封建の時代に幕府を中央に戴て三百藩を分つときは、各藩相互に自家の利害栄辱を重んじ一毫の微も他に譲らずして、その競争の極は他を損じても自から利せんとしたるがごとき事実を見てもこれを証すべし。
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