宋名臣言行録 / 前集巻一・曹彬
嘗曰自吾為將殺人多矣然未嘗以私喜怒輙戮一人其所居堂室弊壊子弟請加修葺公曰時方大冬墻壁瓦石之間百蟲所蟄不可傷其生其仁心愛物如此既平江南回詣閤門入見牓子稱奉勑江南幹當公事回其謙恭不伐又如此
新字:嘗曰自吾為将殺人多矣然未嘗以私喜怒輙戮一人其所居堂室弊壊子弟請加修葺公曰時方大冬墻壁瓦石之間百虫所蟄不可傷其生其仁心愛物如此既平江南回詣閤門入見牓子称奉勑江南幹当公事回其謙恭不伐又如此
書き下し
嘗て曰く、吾が將と為りてより人を殺すこと多し。然れども未だ嘗て私の喜怒を以て輙ち一人を戮せずと。其の居る所の堂室弊壊す。子弟修葺を加えんことを請う。公曰く、時方に大冬なり。墻壁瓦石の間、百蟲の蟄する所なり。其の生を傷る可からずと。其の仁心物を愛すること此くの如し。既に江南を平らげて回り、閤門に詣りて入見す。牓子に稱す、勑を奉じ江南幹當公事より回ると。其の謙恭にして伐らざること又た此くの如し。
現代語訳
かつてこう言った。「私が将となってから殺した人は多い。それでも私情の喜怒によって、ただの一人でも殺したことはない」。住まいの建物が傷んだ。子弟が修理を願い出た。公は言った。「いまはちょうど真冬だ。壁や瓦や石の間は、いろいろな虫が冬ごもりしている場所だ。その生き物を傷つけてはならない」。その仁の心が物を愛することはこのようであった。江南を平定して帰り、閤門に至って参内した。名札にはこう記した。「勅を奉じ、江南の事務を務めて帰りました」。その謙虚さと、功を誇らないことはまたこのようであった。
解説
三つの断片を並べた条です。まず殺した数を認めたうえで、**私情の喜怒でただの一人も殺していない**と言い切る。次が真冬の修理を断った理由で、壁や瓦の間で虫が冬ごもりしている、と。そして江南を平定して帰った日の名札に書いたのが「江南の事務を務めて帰りました」でした。国を一つ滅ぼしてきた人の届け出とは思えない書き方です。三つ並べることで、同じ一つの型が見えるようにしてあります。
この章句が説くこと
未だ嘗て私の喜怒を以て輙ち一人を戮せず墻壁瓦石の間百虫の蟄する所なり其の生を傷る可からず牓子に称す勑を奉じ江南幹当公事より回ると私情慈しみ謙虚
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