宋名臣言行録 / 後集巻十四・陳襄
熙寜二年陳述古學士襄自右史遷臺雜近例左右次補知制誥臺雜乃叙遷三司副使於是特降㫖□知制誥闕與召試襄辭曰陛下以義使臣則臣敢不惟命是聽豈可計較資地以為輕重况義之所在知無不言夫豈知鈇鑕之在前而寵祿之居後哉一有顧利避害之心則依違姑息無所不至身且不正焉能正人乃許追寝前命明年以言青苗事復為右史又嵗餘始掌誥命
新字:熙寜二年陳述古学士襄自右史遷台雑近例左右次補知制誥台雑乃叙遷三司副使於是特降旨□知制誥闕与召試襄辞曰陛下以義使臣則臣敢不惟命是聴豈可計較資地以為軽重況義之所在知無不言夫豈知鈇鑕之在前而寵禄之居後哉一有顧利避害之心則依違姑息無所不至身且不正焉能正人乃許追寝前命明年以言青苗事復為右史又歳余始掌誥命
書き下し
熙寧二年、陳述古學士襄、右史より臺雜に遷る。近例に左右次に知制誥を補す。臺雜は乃ち三司副使に叙遷す。是に於いて特に旨を降して□知制誥の闕、召試に與らしむ。襄辭して曰く、陛下義を以て臣を使わば、則ち臣敢えて惟だ命是れ聽かざらんや。豈に資地を計較して以て輕重と爲す可けんや。况んや義の在る所、知りて言わざる無し。夫れ豈に鈇鑕の前に在りて寵祿の後に居るを知らんや。一たび利を顧み害を避くるの心有らば、則ち依違姑息、至らざる所無し。身且つ正しからず、焉んぞ能く人を正さんや、と。乃ち前命を追寝するを許す。明年、青苗の事を言うを以て復た右史と爲る。又た歲餘にして始めて誥命を掌る。
現代語訳
熙寧二年、学士の陳襄は右史から御史台の雑端に移った。近ごろの例では左右の次席に知制誥を補することになっていた。台雑はそのまま三司副使に順次昇進する。そこで特別に詔が下って、□〔一字を欠く〕知制誥の欠員について、召試を受けさせようとした。陳襄は辞退して言った。「陛下が義によって臣をお使いになるのであれば、臣がどうして命に従わないことがありましょうか。どうして地位や資格を計算して、それを軽重の基準とすることができましょう。まして義のあるところでは、知っていて言わないということがありません。そもそもどうして、刑具が前にあり、寵と俸禄が後ろにあるなどと考えるでしょうか。ひとたび利を顧み害を避ける心があれば、あいまいにごまかし、その場しのぎに流れ、至らないところがなくなります。自分の身がまず正しくなくて、どうして人を正すことができましょうか」。そこで前の命令を取り下げることが許された。翌年、青苗法の件を論じたことでふたたび右史となった。さらに一年余りたって、ようやく詔勅の起草を担当した。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『韓非子』顯學第五十故に孔子曰く、「容を以て人を取らんか、之を子羽に失す、言を以て人を取らんか、之を宰予に失す。」・・・故に明主の吏・宰相は必ず州部より起こり、猛將は必ず卒伍より發る。
-
『宋名臣言行録』前集巻三・向敏中右僕射に除せらる。麻下るの日、翰學李昌武當に對すべし。真宗之に謂いて曰く、朕、即位より未だ嘗て右僕射を除せず。今日、以て敏中に命ず。此れ殊命なり。敏中は應に甚だ喜ぶべしと。對えて曰く、臣未だ宣麻を知らず。亦た敏中の何如なるかを知らずと。上曰く、敏中は今日、門下の賀客必ず多からん。卿往きて之を觀よ。明日却って對し来たれ。朕が意を言う勿かれと。昌武□丞相の歸るを、乃ち往きて之を見る。門に一人も無し。昌武徑ちに入りて之に見え、徐ろに賀して曰く、今日、降麻を聞く。士大夫歡慰せざるは莫しと。公但だ唯唯たり。又た曰く、上、即位より未だ嘗て端揆を除せず。自ら徳重く眷殊なるに非ずんば、何を以て此に至らんと。公復た唯唯たり。又た厯く前世の僕射為る者の勲勞徳業の盛んなる、禮命の重きを陳ぶ。公も亦た唯唯たり。卒に一言も無し。既に退き、復た人をして庖厨の中に至りて、今日、親戚賔客の宴飲する者有るや無きやを問わしむ。亦た寂として一人も無し。乃ち具さに見る所を以て對う。上笑いて曰く、敏中は大いに官職に耐うと。
-
『宋名臣言行録』前集巻四・冦凖王元之の子嘉祐、館職と為る。平時愚騃の若し。獨り公のみ之を知り、喜びて之と語る。公、開封府を知る。一旦、嘉祐に問いて曰く、外人、劣丈を謂うこと云何と。嘉祐曰く、外人皆な云う、丈人旦夕に相に入らんと。公曰く、吾が子の意に于いては何如と。嘉祐曰く、愚を以て之を觀るに、丈人は未だ相と為らざるを善しと為すに若かず。相たれば則ち譽望損せん。公曰く、何の故ぞと。曰く、古よりの賢相の能く功業を建て生民を澤す所以の者は、其の君臣相い得ること魚の水有るが如し。故に言聴かれ計從われて功名俱に美なり。今、丈人は天下の重望を負う。相たれば則ち中外に太平の責め有らん。丈人の明主に于ける、能く魚の水有るが若くならんや。此れ嘉祐の譽望の損ぜんことを恐るる所以なりと。公喜びて起ちて其の手を執りて曰く、元之は文章天下に冠たりと雖も、深識遠慮に至りては、殆ど吾が子に勝る能わずと。
-
『宋名臣言行録』前集巻四・楊億丁謂、初めて參政たり。億、例して焉を賀す。同列に語りて曰く、骰子の選のみ。何ぞ多く尚とせんやと。未だ幾ならずして、親の疾を辭して陽翟の别墅に逃る。
-
『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁襄城縣を知す。伯兄久しく心疾あり。公承事照管すること孝子の如し。編校秘閣書籍に召さる。兄の病を以て辭して赴かず。富公之を責めて曰く、臺閣の清資は人豈に得易からんや。小官の常調を出づるも亦た難事なり。何ぞ必ずしも苦だ辭せんやと。公曰く、富貴には命有りと。
-
『宋名臣言行録』前集巻六・陳堯佐公、官に居りて妄りに進取せず。太常丞と為ること十三年、遷らず。起居郎と為ること七年、遷らず。錢塘の堤を議せしより、丁謂の絀くる所と為る。後、丁益々事を用い、威福を専らにす。故人の子弟、公の外に乆しきを以て、多く勉むるに進取を以てす。公曰く、唯だ乆しくして然る後に吾が守を見ると。是くの如きこと十五年。今の天子即位し、謂敗る。公乃ち召用せらる。