宋名臣言行録 / 後集巻十三・陳瓘
公以紹聖史官專據荆公日錄以修裕陵實録變亂是非不可傳信故居諌省首論其事進日錄辨乞改實錄又因竄責合浦著尊堯集深闢誣妄以明君臣之義
新字:公以紹聖史官専拠荆公日録以修裕陵実録変乱是非不可伝信故居諌省首論其事進日録弁乞改実録又因竄責合浦著尊堯集深闢誣妄以明君臣之義
書き下し
公、紹聖の史官專ら荊公の日録に據りて以て裕陵實録を修め、是非を變亂して信を傳う可からざるを以て、故に諫省に居りて首として其の事を論じ、日録辨を進め、實録を改めんことを乞う。又た合浦に竄責せらるるに因りて尊堯集を著し、深く誣妄を闢きて以て君臣の義を明らかにす。
現代語訳
陳瓘は、紹聖の史官がもっぱら王安石の日記に基づいて神宗実録を編纂し、是と非を取り違えて信を後世に伝えられないものにしている、として、諫官の任にあった際に真っ先にこの件を論じ、『日録弁』を進上して実録の改訂を求めた。さらに合浦に流されたのを機に『尊堯集』を著し、深く偽りを退けて君臣の義を明らかにした。
解説
六十二字ですが、この人の生涯の主戦場が示されています。争ったのは政策ではなく、記録の作り方でした。**紹聖の史官がもっぱら王安石の日記に基づいて神宗実録を編纂し。**一人の私的な記録を唯一の典拠にすれば、その人の見た世界が正史になります。**是と非を取り違えて信を後世に伝えられないものにしている。**しかも流された先で、もう一冊書きました。**合浦に流されたのを機に『尊堯集』を著し。**流刑が執筆の時間になっています。
この章句が説くこと
紹聖の史官専ら荊公の日録に拠りて以て裕陵実録を修む是非を変乱して信を伝う可からず諫省に居りて首として其の事を論じ日録弁を進め実録を改めんことを乞う合浦に竄責せらるるに因りて尊堯集を著し深く誣妄を闢く記録典拠
関連する章句
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『宋名臣言行録』後集巻十三・陳瓘因りて之に問いて曰く、君は尊堯の名を立つる所以を知るか。蓋し神考を以て堯と爲し、王上を以て舜と爲すなり。舜を助けて堯を尊ぶ。何ぞ詆誣と謂わんや。時の相は學術淺短にして、名分の義未だ甚だしくは講求せず。故に人の法とする所と爲る。尊堯を治むるの罪を請わしむるは、將に以て黨を結び寵を固めんとするなり。君の彼に得る所の者幾何ぞ。乃ち亦た公議を畏れず名分を干犯するか。請う、具さに瓘の此の語を申せ。瓘は將に顯かに誅戮に就かん。必ずしも刑獄を以て相い恐れしめざれ、と。悈公の言の畢わるを待たず、屢ミ揖して公を退かしむ。尋いで人に語りて曰く、敢えて其の説を引かざるも、尚お自ら此くの如し。良に畏る可きなり、と。繼いで又た公を僧舍に幽し、窘辱百端なり。公之に安んじ、以て撓と爲さず。悈も亦た終に害を爲す能わず。
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『宋名臣言行録』後集巻十三・陳瓘公台州に謫せらる。朝廷遷人石悈を起こして州事を知らしめ、且つ闕に赴きて官に之かしむ。士論訩訩として、咸な以爲えらく、將に公に處分有らんとするなり、と。悈至りて果して揚言して公を怖れしむ。事を視るの次日、即ち兵官を遣わして突として居る所に来たり、行李を搜檢し、公を攝して郡庭に至らしめ、大いに獄具を陳ぬ。蓋し朝旨は尊堯の副本を取索するのみなるに、而して悈此を爲して以て相い迫脅せるのみ。
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『宋名臣言行録』後集巻十三・陳瓘公太學博士爲り。薛昂・林自の徒、正錄と爲る。皆な蔡卞の黨なり。競いて荊公を推尊して元祐を擠排し、士人を禁戒して元祐の學術を習うを得ざらしむ。卞方に資治通鑑の板を毀たんことを議す。公之を聞き、士に策する題に因りて特に序文を引きて、以て神考に訓有るを明らかにす。是に於いて林自駭異して公に謂いて曰く、此れ豈に神考の親製ならんや、と。公曰く、誰か其の非なるを言わんや、と。自又た曰く、亦た神考少年の文のみ、と。公曰く、聖人の學は天性に得たり。始め有り卒わり有り。豈に少長の異有らんや、と。自辭屈し愧歉して、遽かに以て卞に吿ぐ。卞乃ち密かに學中をして板を高閣に置かしめ、復た敢えて毀たんことを議せず。
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『宋名臣言行録』後集巻十三・陳瓘公蔡氏に緣りて罪を得たりと雖も、而も首として私史を論じ、力めて王氏を排す。王・蔡の黨、薛昂・蹇序辰・何執中・鄧洵仁・洵武・蔡嶷の徒の如きは、皆な當時力を協せて排陷し公を殺さんと欲せし者なり。亦た獨り蔡京兄弟のみに非ざるなり。蔡嶷と公とは初め相い識らず。公宰相に書を上りて海陵に謫守せらる。嶷太學生爲り、長書を以て公に遺り、事を論じて公の議に合す。公の諫疏は婉にして理有り、陸宣公に似たり。剛にして撓まざるは狄梁公に似たり。文章淵源、正道を發明するは、則ち韓文公其の人なり、と謂う。次年に至り、嶷對策を以て大魁と爲る。陳ぶる所の時務、前書と頓に異なる。是に於いて愧悔して公を殺して以て口を滅せんと欲し、密かに京黨を贊けて力を出だすこと尤も甚だし。
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『宋名臣言行録』後集巻十三・陳瓘嘗て別試所の主文と爲る。林自蔡卞に謂いて曰く、聞くならく、陳瓘は盡く史學を取りて經に通ずるの士を黜けんと欲す。意は國是を沮壞して荊公の學を動搖せしめんと欲するなり、と。卞既に怒りを積み、此に因りて公を害し、遂に史學を禁絶せんことを謀る。計畫已に定まる。唯だ公の取る所の士を候ちて、疵を求め説を立てて之を行わんとするのみ。公固より其の此くの如きを預料す。乃ち前の五名に於いて悉く經を談じ、及び純ら王氏の學を用うる者を取る。卞發する無し。然れども五名の下は往往にして皆な博洽稽古の士なり。公嘗て曰く、當時若し矯揉無くんば、則ち勢い必ず相い激し、史學往往にして遂に廢せん。故に時に隨うは時を救う所以なり。必ずしも快を目前に取らざるなり、と。