宋名臣言行録 / 後集巻十三・范祖禹
諸黨相攻不巳正叔多用古禮子瞻謂其不近人情如王介甫深嫉之或加玩侮故朱光庭賈易不平皆以謗訕誣子瞻執政兩平之是時既退元豐大臣于散地皆啣怨刻骨隂伺間隙而諸賢不悟自分黨相毁至紹聖初章惇為相同以為元祐黨盡竄嶺海之外可哀也吕微仲秦人戅直無黨范淳夫蜀人師溫公不立黨亦不免竄逐以死尤可哀也
新字:諸党相攻不巳正叔多用古礼子瞻謂其不近人情如王介甫深嫉之或加玩侮故朱光庭賈易不平皆以謗訕誣子瞻執政両平之是時既退元豊大臣于散地皆啣怨刻骨陰伺間隙而諸賢不悟自分党相毁至紹聖初章惇為相同以為元祐党尽竄嶺海之外可哀也呂微仲秦人戅直無党范淳夫蜀人師温公不立党亦不免竄逐以死尤可哀也
書き下し
諸黨相い攻めて已まず。正叔多く古禮を用う。子瞻其の人情に近からざること王介甫の如しと謂い、深く之を嫉み、或いは玩侮を加う。故に朱光庭・賈易平らかならず、皆な謗訕を以て子瞻を誣う。執政兩ながら之を平らぐ。是の時既に元豐の大臣を散地に退く。皆な怨みを銜みて骨に刻み、陰かに間隙を伺う。而して諸賢悟らず、自ら黨を分かちて相い毀る。紹聖の初めに至り、章惇相と爲り、同じく以て元祐の黨と爲し、盡く嶺海の外に竄す。哀れむ可きなり。呂微仲は秦人、戇直にして黨無し。范淳夫は蜀人、温公を師として黨を立てず。亦た竄逐して以て死するを免れず。尤も哀れむ可きなり。
現代語訳
諸党は互いに攻め合ってやまなかった。程頤は多く古礼を用いた。蘇軾はそれが人情に近くないこと王安石と同じだと言い、深くこれを憎み、あるいは軽んじあざけった。だから朱光庭と賈易は不満を抱き、いずれも誹謗をもって蘇軾を陥れようとした。執政は両方をとりなして収めた。このとき、すでに元豊時代の大臣たちは閑職に退けられていた。みな恨みを含んで骨に刻み、ひそかに隙をうかがっていた。ところが賢者たちはそれに気づかず、自分から党に分かれて互いにけなし合った。紹聖の初めになって、章惇が宰相となると、まとめて元祐の党とみなし、ことごとく嶺南の外に流した。哀れむべきことである。呂大防は秦の人で、実直で党を持たなかった。范祖禹は蜀の人で、司馬光を師として党を立てなかった。それでも流されて死ぬことを免れなかった。とりわけ哀れむべきことである。
解説
この章句が説くこと
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『宋名臣言行録』後集巻十三・范祖禹哲宗即位し、宣仁后簾を垂れて同に政を聽く。群賢畢く朝に集まる。專ら忠厚不擾を以て治と爲し、戎を和し武を偃せ、民を愛し穀を重んず。庶幾わくは嘉祐の風なり。然れども賢者と雖も類を以て相い從うを免れず。故に當時洛黨・川黨・朔黨の號有り。洛黨は程正叔を以て領袖と爲し、朱光庭・賈易を羽翼と爲す。川黨は蘇子瞻を以て領袖と爲し、呂陶等を羽翼と爲す。朔黨は劉摯・梁燾・王巖叟・劉安世を以て領袖と爲し、羽翼尤も衆し。
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『宋名臣言行録』前集巻七・范仲淹公の吕公に坐して貶せられしより、羣士大夫、各々二公の曲直を持す。吕公之を患う。凡そ公に直きなる者は指して黨と為し、或いは坐して貶竄せらる。吕の復た相たるに及び、公も亦た再び起ちて用いらる。是に於て二公驩然として相い約し、力を戮せて賊を平らぐ。天下の士、皆な此を以て二公を多とす。然れども朋黨の論、遂に起こりて止まず。上、既に公を賢として大用す可しとす。故に卒に羣議を置きて之を用う。
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『宋名臣言行録』後集巻十二・劉安世宣仁后晏駕す。呂丞相陵下に使いす。范純仁奏して執政を除せんことを乞い、即ち李清臣を用いて中書侍郎と爲し、鄧温伯を尚書右丞と爲す。時に大臣卒に調停の説を用う。遂に李・鄧の除有り。二人皆な熙豐の黨にして、屢ミ元祐に攻めらる。乃ち先朝の事を以て上意を激怒せしむ。會ミ廷策の進士に、李・鄧策題を撰し、歷ミ元祐の政を詆り、新法を復するの意有り。從いて元祐の諸人を中傷す。公乃ち出でて常山に鎮す。未だ幾ばくならずして元豐の舊人悉く皆な收召せられ、遂に章惇を相とす。言者、公頃ミ蔡確を言うを以て、職を落として南安軍を知らしむ。而して呂丞相も亦た遠竄を免れず。乃ち深く公に媿づ。
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『宋名臣言行録』後集巻九・蘇軾介甫と子瞻と初め隙無し。惠卿子瞻の才髙きを忌み輒ち之を間つ。中丞李定も亦た介甫の客なり。母の喪に服さず。子瞻以て不孝と爲し、詩を作りて之を詆る。定以て恨みと爲し、子瞻の詩を作りて謗訕すと劾す。遂に御史の獄に下し黄州に謫居す。
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『宋名臣言行録』前集巻七・范仲淹慶厯四年四月戊戌、上、執政と朋黨の事を論ずるに及ぶ。公對えて曰く、方は類を以て聚まり、物は羣を以て分かる。古より邪正、朝に在りて未だ嘗て各々一黨を為さずんばあらず。禁ず可からざるなり。聖鑒の之を辨ずるに在るのみ。誠に君子をして相い朋して善を為さしめば、其れ國家に於て何の害あらんと。
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『宋名臣言行録』後集巻九・蘇軾軾又た數ミ上章して時政の得失を言い、進士の策を擬するに皆介甫を譏刺す。詔して兩制に諫官を舉げしむるに及び、衆論以爲えらく、當今宜しく諫官と爲るべき者は傅堯俞・蘇軾に若くは無しと。故に堯俞を舉ぐる者六七人。而して景仁軾を舉ぐ。景温、軾の諫官と爲りて介甫の短を攻めんことを恐る。故に力めて之を排す。介甫、淮南・江南東西・荊湖北・夔州・成都の六路の轉運司に下して其の狀を體量せしむ。蓋し軾は眉州の人なり。其の京に入るや適ま本州新守を迎う。軾因りて帶びて以て來たるのみ。