宋名臣言行録 / 後集巻十三・范祖禹
然仁宗每因事示人好惡皇祐中楊安國講直哉史魚邦有道如矢邦無道如矢君子哉□伯玉邦有道則仕邦無道則巻而懷之仁宗曰伯玉信君子矣然不若史魚之直據孔子所言則史魚不若伯玉之為君子仁宗之言仁君之言也人君欲臣下切直故言伯玉不如史魚以開臣下切直之路由是天下知仁宗好直不好佞此聖人大徳也願陛下以此為法昭示所好以慰羣望上然之
新字:然仁宗毎因事示人好悪皇祐中楊安国講直哉史魚邦有道如矢邦無道如矢君子哉□伯玉邦有道則仕邦無道則巻而懐之仁宗曰伯玉信君子矣然不若史魚之直拠孔子所言則史魚不若伯玉之為君子仁宗之言仁君之言也人君欲臣下切直故言伯玉不如史魚以開臣下切直之路由是天下知仁宗好直不好佞此聖人大徳也願陛下以此為法昭示所好以慰羣望上然之
書き下し
然れども仁宗每に事に因りて人に好惡を示す。皇祐中、楊安國「直なるかな史魚、邦に道有るも矢の如く、邦に道無きも矢の如し。君子なるかな□伯玉、邦に道有れば則ち仕え、邦に道無ければ則ち卷きて之を懷にす」を講ず。仁宗曰く、伯玉は信に君子なり。然れども史魚の直なるには若かず、と。孔子の言う所に據れば、則ち史魚は伯玉の君子爲るに若かず。仁宗の言は仁君の言なり。人君は臣下の切直なるを欲す。故に伯玉は史魚に如かずと言い、以て臣下切直の路を開く。是に由りて天下、仁宗の直を好み佞を好まざるを知る。此れ聖人の大德なり。願わくは陛下此を以て法と爲し、好む所を昭示して以て羣望を慰めよ、と。上之を然りとす。
現代語訳
「しかし仁宗は、事あるごとに人に好悪をお示しになりました。皇祐年間、楊安国が『まっすぐだな、史魚は。国に道があるときも矢のようであり、国に道がないときも矢のようだ。君子だな、□伯玉は。国に道があれば仕え、国に道がなければ巻いて懐にしまう』という一節を講じました。仁宗は言われました。『伯玉はまことに君子である。しかし史魚のまっすぐさには及ばない』と。孔子の言われたところによれば、史魚は伯玉が君子であることには及びません。仁宗のお言葉は、仁君の言葉です。君主は臣下がまっすぐであることを望みます。だからあえて、伯玉は史魚に及ばないと言われ、それによって臣下がまっすぐ物を言う道を開かれたのです。これによって天下は、仁宗がまっすぐさを好み、へつらいを好まれないことを知りました。これこそ聖人の大きな徳です。どうか陛下もこれを手本とし、好むところをはっきりお示しになって、人々の期待に応えてくださいますよう」。天子はこれをもっともとした。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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新語・辨惑夫れ事を挙ぐる者、或いは善を為して善と称せられず、或いは不善にして善と称せらるるは、何ぞ。之を視る者謬り、之を論ずる者誤ればなり。故に行い或いは世に合い、言或いは耳に順うは、斯れ乃ち上の意に阿り、上の旨に従い、直を操りて方に乖き、曲を懐きて邪に合し、其の剛柔の勢いに因り、為に縦横の術を作る。故に忤逆の言無く、合わざるの義無き者なり。昔哀公有若に問いて曰く、「年饑えて、用足らず、之を如何せん」と。有若対えて曰く、「盍ぞ徹せざる」と。蓋し上を損して之を下に帰すれば、則ち耳に忤い意に合わず、遂に逆いて用いられず。此れ所謂其の行いを正して苟くも世に合わざるなり。有若豈に哀公の意に阿り、国を益するの義を為すを知らざらんや。夫れ君子は直道にして行い、必ず屈辱せらるるを知りて避けず。故に行いは敢えて苟くも合わせず、言は苟くも容れられんと為さず。世に功無しと雖も、名は称するに足る。言は国家に用いられずと雖も、挙措の言は法る可きなり。
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史記 張丞相列伝周昌は、沛の人なり。其の従兄を周苛と曰ふ。秦の時皆泗水の卒史為り。高祖沛に起ち、泗水の守・監を撃破するに及び、是に於て周昌・周苛、卒史より沛公に従ふ。沛公、周昌を以て職志と為し、周苛を客と為す。従ひて関に入り、秦を破る。沛公立ちて漢王と為り、周苛を以て御史大夫と為し、周昌を中尉と為す。漢王の四年、楚、漢王を滎陽に囲むこと急なり。漢王遁れ出で去りて、周苛をして滎陽城を守らしむ。楚、滎陽城を破り、周苛をして将たらしめんと欲す。苛罵りて曰く、「若(なんぢ)趣(すみや)かに漢王に降れ。然らずんば、今に虜と為らん」と。項羽怒り、周苛を亨(に)る。是に於て乃ち周昌を拝して御史大夫と為す。常に従ひて項籍を撃破す。六年中を以て蕭・曹等と倶に封ぜらる。周昌を封じて汾陰侯と為す。周苛の子周成は父の事に死せしを以て、封ぜられて高景侯と為る。昌は人と為り彊力にして、敢へて直言す。蕭・曹等より皆之に卑下す。昌嘗て燕の時に入りて事を奏す。高帝方に戚姫を擁す。昌還り走る。高帝逐ひて得、周昌の項に騎りて、問ひて曰く、「我は何如なる主ぞや」と。昌仰ぎて曰く、「陛下は即ち桀紂の主なり」と。是に於て上之を笑ふ。然れども尤も周昌を憚る。
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、昔し国王あり、国を治て後ちに諸の臣下に問ふ、我好く国を治む、よく賢なりやと、諸臣みな云く、帝甚だよく治む、太だ賢なりと、時に一臣ありて云く、帝は賢ならずと、帝の云く故は如何、臣が云く、国を治て後ち、帝の弟に与へずして息に与ふと、帝の心にかなはずして、追ひ立られて後、亦一臣に問ふ、朕よく仁なりや、臣が云く、甚だ仁なり、帝の云く、其の故いかん、臣が云く、仁君には必ず忠臣あり、忠臣は直言あるなり、前きの臣太だ直言なり、是れ忠臣なり、仁君にあらずんば得じと、帝是を感じて、即ち前きの臣をめしかへさるゝなり、
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『春秋左氏伝』昭公元年 博物の君子以って其の體を露(やつ)れしむること勿し。茲(ここ)に心爽(あき)らかならずして、百度を昏亂す。今乃ち之を壹にすること無からんや、則ち疾を生ぜん。僑又之を聞く、内官は同姓に及ばず。其の生殖せず。美先づ盡くれば、則ち相疾を生ず。君子是を以って之を惡む。故に志に曰く、『妾を買ひて其の姓を知らざれば、則ち之を卜せよ』と。此の二者に違ふは、古の慎む所なり。男女姓を辨ずるは、禮の大司なり。今君の内に實に四姬有り、其れ乃ち是れ無からんや。若し是の二者に由らば、為す可からざるのみ。四姬省くこと有らば、猶ほ可なり。無くんば則ち必ず疾を生ぜん」と。叔向曰く、「善い哉。肸未だ之を聞かざるなり。此れ皆然り」と。叔向出づ。行人揮之を送る。叔向鄭の故を問ひ、且つ子皙を問ふ。對へて曰く、「其れ幾何ぞ。禮無くして好んで人を陵ぎ、富を怙(たの)みて其の上を卑しむ。久しきこと能はじ」と。晉侯子產の言を聞きて曰く、「博物の君子なり」と。重く之に賄す。
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『春秋左氏伝』昭公八年 陳の滅亡冬、十一月、壬午、陳を滅ぼす。輿嬖袁克、馬を殺し玉を毀ちて以って葬る。楚人將に之を殺さんとす。之を寘かんことを請ふ。既にして又私せんことを請ふ。幄に私し、絰を顙に加へて逃る。穿封戌をして陳公為らしめて曰く、「城麇の役に諂はず」と。王に侍して酒を飲む。王曰く、「城麇の役、女寡人の此に及ぶを知らば、女其れ寡人を辟けんか」と。對へて曰く、「若し君の此に及ぶを知らば、臣必ず死を致して禮もて以って楚を息めん」と。晉侯史趙に問ひて曰く、「陳其れ遂に亡びんか」と。對へて曰く、「未だし」と。公曰く、「何の故ぞ」と。對へて曰く、「陳は顓頊の族なり。歲鶉火に在りて、是を以って卒に滅ぶ。陳も將に之の如くならん。今析木の津に在り、猶ほ將に復た由らんとす。且つ陳氏齊に政を得て、而る後に陳卒に亡びん。幕より瞽瞍に至るまで、命に違ふ無し。舜之に重ぬるに明德を以ってし、德を遂に寘く。遂世々之を守る。胡公の淫せざるに及び、故に周之に姓を賜ひ、虞帝を祀らしむ。臣聞く、盛德は必ず百世祀らる、と。虞の世數未だし。繼ぎて守るは將に齊に在らんとす。其の兆既に存せり」と。
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『酔古堂剣掃』集峭・殿上の虎才士は駕を泛すを妨げず、轅下の駒は吾願はざるなり、諍臣豈に摸棱に合せんや、殿上の虎たるも君尤むる無からん。

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