宋名臣言行録 / 後集巻十三・范祖禹
元祐初伊川除崇政殿説書時公為著作佐郎伊川謂溫公曰經筵若得范淳夫来尤好溫公曰他巳修史朝廷自擢用矣伊川曰不謂如此但經筵須要他溫公問何故伊川曰頤自度乏溫潤之氣淳夫色溫而氣和尤可以開陳是非導人主之意其後除侍講
新字:元祐初伊川除崇政殿説書時公為著作佐郎伊川謂温公曰経筵若得范淳夫来尤好温公曰他巳修史朝廷自擢用矣伊川曰不謂如此但経筵須要他温公問何故伊川曰頤自度乏温潤之気淳夫色温而気和尤可以開陳是非導人主之意其後除侍講
書き下し
元祐の初め、伊川崇政殿説書に除せらる。時に公著作佐郎爲り。伊川温公に謂いて曰く、經筵若し范淳夫を得て来たらしめば尤も好し、と。温公曰く、他は已に史を修む。朝廷自ら擢用せん、と。伊川曰く、此くの如きを謂うに非ず。但だ經筵に須らく他を要すべし、と。温公問う、何の故ぞ、と。伊川曰く、頤自ら度るに温潤の氣に乏し。淳夫は色温やかにして氣和す。尤も以て是非を開陳し、人主の意を導く可し、と。其の後侍講に除せらる。
現代語訳
元祐の初め、程頤が崇政殿説書に任じられた。当時、范祖禹は著作佐郎であった。程頤は司馬光に言った。「経筵に、もし范淳夫を招くことができればいちばんよい」。司馬光は言った。「あの人はすでに史書の編纂をしている。朝廷が自然と抜擢して用いるだろう」。程頤は言った。「そういうことを言っているのではありません。ただ、経筵にはどうしてもあの人が要るのです」。司馬光は尋ねた。「なぜか」。程頤は言った。「私は自分を測ってみるに、温かく潤いのある気に乏しい。淳夫は顔色が温かく、気が和やかです。是非を説き明かし、君主の心を導くのに、とりわけ向いております」。その後、范祖禹は侍講に任じられた。
解説
人を推した理由が、能力ではなく気質でした。しかも比較の相手が自分です。**私は自分を測ってみるに、温かく潤いのある気に乏しい。**厳しさで押す自分では、若い天子には届かない。だから別の人がいる、と。**淳夫は顔色が温かく、気が和やかです。**そして役目が指定されます。**是非を説き明かし、君主の心を導くのに、とりわけ向いております。**正しさを届けるには、正しさだけでは足りない。自分に無いものを持つ人を、自分から呼び寄せました。
この章句が説くこと
経筵若し范淳夫を得て来たらしめば尤も好し但だ経筵に須らく他を要すべし頤自ら度るに温潤の気に乏し淳夫は色温やかにして気和す尤も以て是非を開陳し人主の意を導く可し気質推挙
関連する章句
-
『宋名臣言行録』後集巻十三・范祖禹正言に除せらる。客に温公に言う者有り、公言路に在れば、必ず能く協濟せん、と。温公色を正して曰く、子は淳甫が光に過ち有るを見て言わずと謂うか。殆ど然らざるなり、と。
-
『宋名臣言行録』後集巻十三・范祖禹朝廷既に温公・申公を相とす。詔して蜀公を起こす。蜀公書を以て公に問う。公當に起つべからずと謂う。蜀公書を得て大いに喜びて曰く、是れ吾が心なり。吾の爲さんと欲する所は、君實已に之を爲せり。何ぞ復た出づるを用いん、と。又た親舊に與うる書に云う、比ころ亦た出でんと欲す。而るに二即勸め止む。遂に已む、と。
-
『宋名臣言行録』後集巻七・司馬光公永興軍を知す。上章して曰く、臣の不才は最も羣臣の下に出づ。先見は呂誨に如かず、公直は范純仁・程顥に如かず、敢言は蘇軾・孔文仲に如かず、勇決は范鎮に如かず。若し臣の罪、鎮と同じくば則ち鎮の例に依りて致仕せんことを乞う。若し罪、鎮より重くば、或いは竄し或いは誅せらるるも敢えて逃れざる所なりと。帝必ず公を用いんと欲し、召して許州を知せしめ、闕を過ぎて殿に上らしむ。監察御史程顥に謂いて曰く、卿光の來たるや否やを度れと。顥對えて曰く、陛下能く其の言を用いば光は必ず來たらん。其の言を用うる能わずんば光は必ず來たらじと。帝曰く、未だ其の言を用うるを論ぜず。光の如き者常に左右に在らば自ら過ち無かる可しと。公果たして召命を辭す。帝嘗て左丞蒲宗孟に謂いて曰く、光の如きは別事を論ぜず、只だ樞密を辭するの一節のみ。朕即位より以來、惟だ此の一人を見るのみと。帝の公に眷禮すること此くの如く衰えず。
-
『宋名臣言行録』後集巻三・文彦博元祐の初め、公を起こして平章軍國重事と爲す。程正叔を召して崇政殿說書と爲す。正叔師道を以て自ら居り、侍講する毎に色甚だ莊なり。繼ぐに諷諫を以てす。上之を畏る。公は上に對して恭なること甚だし。進士の唱名に侍立すること終日。上屢ミ曰く、太師少しく休めと。公頓首して謝し、立ちて去らず。時に年九十なり。或るひと正叔に謂いて曰く、君の倨るは潞公の恭なるに視ぶ。議者以て未だ盡くさずと爲すと。正叔曰く、潞公は三朝の大臣、幼主に事う。恭ならざるを得ず。吾は布衣を以て上の師傅と爲る。其れ敢えて自ら重んぜざらんや。吾と潞公と同じからざる所以なりと。識者其の言に服す。
-
『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁給事中を除せらる。時に哲宗宣仁太后と政を共にす。司馬温公相に入り首めに差役法を改む。公之を聞き人に謂いて曰く、此の事は當に熟く講じて緩やかに行うべし。然らずんば滋ミ民の病と爲らん。且つ宰相の職は人を求むるに在り。法を變ずるは先んずる所に非ざるなりと。朝に還りて力めて温公の爲に之を言う。温公建請する所有り。公復た言う、宰相は當に心を虚しくして以て衆論を延くべし。必ずしも謀の自ら己より出づるを以てせず。謀自ら己より出づれば則ち諂諛は間に乘じて迎合するを得て、正士は將に懷を巻きて退避せんとすと。公と温公と志を同じくすと雖も、事に臨みて矯正する所有ること類ミ此くの如し。是に於いて人皆公の平直に服す。
-
『宋名臣言行録』後集巻十三・范祖禹熙寧三年、温公歷代君臣の事迹を修む。公を辟して同に編修せしむ。又た劉攽・劉恕を辟す。温公洛に歸るに及び、詔して其の属を以て自ら隨わしむるを聽す。而して二公は官所に在り。獨り公のみ洛に在り。温公專ら書局の事を以て之に属す。故に公此の書に於いて力を致すこと尤も多し。