宋名臣言行録 / 後集巻十三・范祖禹
熙寜三年溫公修厯代君臣事迹辟公同編修又辟劉攽劉恕及溫公歸洛詔聽以其属自隨而二公在官所獨公在洛溫公專以書局事属之故公於此書致力尤多
新字:熙寜三年温公修厯代君臣事迹辟公同編修又辟劉攽劉恕及温公帰洛詔聴以其属自随而二公在官所独公在洛温公専以書局事属之故公於此書致力尤多
書き下し
熙寧三年、温公歷代君臣の事迹を修む。公を辟して同に編修せしむ。又た劉攽・劉恕を辟す。温公洛に歸るに及び、詔して其の属を以て自ら隨わしむるを聽す。而して二公は官所に在り。獨り公のみ洛に在り。温公專ら書局の事を以て之に属す。故に公此の書に於いて力を致すこと尤も多し。
現代語訳
熙寧三年、司馬光が歴代の君臣の事跡を編纂した。范祖禹を招いてともに編修させた。また劉攽と劉恕を招いた。司馬光が洛陽に帰ることになると、詔が下って、その属官を連れて行くことを許された。ところが劉攽と劉恕の二人はそれぞれの任地にいた。洛陽にいたのは范祖禹ただ一人であった。司馬光はもっぱら編纂局の仕事をこの人に任せた。だから范祖禹はこの書に力を注いだところがとりわけ多かった。
解説
『資治通鑑』の現場が、たった六十四字で分かります。招かれた属官は三人。ところが実際に同じ場所にいたのは一人でした。**洛陽にいたのは范祖禹ただ一人であった。**そこから仕事量が決まります。**司馬光はもっぱら編纂局の仕事をこの人に任せた。**才が抜きん出ていたから、とは書かれていません。居合わせたから、です。**だから范祖禹はこの書に力を注いだところがとりわけ多かった。**十九年の大事業で、いちばん多く関わった理由がこれでした。
この章句が説くこと
熙寧三年温公歴代君臣の事迹を修む公を辟して同に編修せしむ温公洛に帰るに及び詔して其の属を以て自ら随わしむるを聴す而して二公は官所に在り独り公のみ洛に在り温公専ら書局の事を以て之に属す編纂通鑑
関連する章句
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