宋名臣言行録 / 後集巻三・文彦博
元祐初起公平章軍國重事召程正叔為崇政殿説書正叔以師道自居每侍講色甚莊繼以諷諌上畏之公對上恭甚進士唱名侍立終日上屢曰太師少休公頓首謝立不去時年九十矣或謂正叔曰君之倨視潞公之恭議者以為未盡正叔曰潞公三朝大臣事幼主不得不恭吾以布衣為上師傅其敢不自重吾與潞公所以不同也識者服其言
新字:元祐初起公平章軍国重事召程正叔為崇政殿説書正叔以師道自居毎侍講色甚荘継以諷諌上畏之公対上恭甚進士唱名侍立終日上屢曰太師少休公頓首謝立不去時年九十矣或謂正叔曰君之倨視潞公之恭議者以為未尽正叔曰潞公三朝大臣事幼主不得不恭吾以布衣為上師傅其敢不自重吾与潞公所以不同也識者服其言
書き下し
元祐の初め、公を起こして平章軍國重事と爲す。程正叔を召して崇政殿說書と爲す。正叔師道を以て自ら居り、侍講する毎に色甚だ莊なり。繼ぐに諷諫を以てす。上之を畏る。公は上に對して恭なること甚だし。進士の唱名に侍立すること終日。上屢ミ曰く、太師少しく休めと。公頓首して謝し、立ちて去らず。時に年九十なり。或るひと正叔に謂いて曰く、君の倨るは潞公の恭なるに視ぶ。議者以て未だ盡くさずと爲すと。正叔曰く、潞公は三朝の大臣、幼主に事う。恭ならざるを得ず。吾は布衣を以て上の師傅と爲る。其れ敢えて自ら重んぜざらんや。吾と潞公と同じからざる所以なりと。識者其の言に服す。
現代語訳
元祐のはじめ、文彦博を起用して平章軍国重事とした。程頤を召して崇政殿説書とした。程頤は師としての道をもって自ら任じ、講義のたびに顔つきがきわめて厳かであった。続いて遠回しに諫めた。天子はこれを畏れた。文彦博は天子に対してたいそう恭しかった。進士の名を読み上げる儀では終日立って侍った。天子はたびたび「太師よ、少し休め」と言った。文彦博は頭を下げて謝したが、立ったまま去らなかった。当時、九十歳であった。ある人が程頤に言った。「あなたの尊大さは、潞公の恭しさと比べられます。論ずる者はまだ足りないとしています」。程頤は言った。「潞公は三代に仕えた大臣で、幼い主君に仕えている。恭しくないわけにいかない。私は無位の身から主上の師傅となった。どうして自らを重んじずにいられようか。私と潞公とが同じでない理由である」。見識ある者はその言葉に服した。
解説
この章句が説くこと
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