宋名臣言行録 / 後集巻十二・劉安世
建中間公與蘇子瞻自嶺外同歸至宣和間内侍梁師成得幸貴震一時雖蔡京童貫皆出其下師成令呉可自京師来宋欲鈎致公引以大用且以書抵公可至三日然後敢出之且道所以来之意大槩以諸孫求仕為言以動公公謝曰吾若為子孫計則不至是矣且吾廢斥㡬三十年未嘗有一㸃墨與當朝權貴吾欲為元祐完人不可破戒乃還其書而不答人皆為公危之而公自若也
新字:建中間公与蘇子瞻自嶺外同帰至宣和間内侍梁師成得幸貴震一時雖蔡京童貫皆出其下師成令呉可自京師来宋欲鈎致公引以大用且以書抵公可至三日然後敢出之且道所以来之意大槩以諸孫求仕為言以動公公謝曰吾若為子孫計則不至是矣且吾廃斥㡬三十年未嘗有一㸃墨与当朝権貴吾欲為元祐完人不可破戒乃還其書而不答人皆為公危之而公自若也
書き下し
建中の間、公蘇子瞻と嶺外より同に歸る。宣和の間に至り、内侍梁師成幸を得て、貴きこと一時を震わす。蔡京・童貫と雖も皆な其の下に出づ。師成呉可をして京師より宋に来たらしめ、公を鈎致して引きて以て大いに用いんと欲す。且つ書を以て公に抵る。可至りて三日、然る後に敢えて之を出す。且つ来たる所以の意を道う。大概諸孫の仕を求むるを以て言と爲し、以て公を動かす。公謝して曰く、吾若し子孫の計を爲さば、則ち此に至らざるなり。且つ吾廢斥せらるること幾ど三十年、未だ嘗て一點の墨も當朝の權貴に與うる有らず。吾元祐の完人爲らんと欲す。戒を破る可からず、と。乃ち其の書を還して答えず。人皆な公の爲に之を危ぶむ。而れども公自若たり。
現代語訳
建中年間、劉安世は蘇軾とともに嶺南の外から帰った。宣和年間になると、宦官の梁師成が寵を得て、その権勢は当時を震わせた。蔡京や童貫でさえ、皆その下に出た。梁師成は呉可を都から宋州へ来させ、劉安世を釣り寄せて引き立て、大いに用いようとした。そのうえで手紙を劉安世に届けさせた。呉可は着いてから三日たって、ようやくそれを出す気になった。そして来た理由を述べた。おおよそ、孫たちの仕官を求めるという話を持ち出して、劉安世の心を動かそうとした。劉安世は断って言った。「私がもし子孫のための計を立てるような人間なら、こんなところまで落ちてはいない。そのうえ私は退けられて三十年近く、いまだかつて一点の墨すら、当代の権力者に与えたことがない。私は元祐の完人でありたい。その戒めを破るわけにはいかない」。そこで手紙を返し、返事をしなかった。人は皆、劉安世のためにそれを危ぶんだ。だが劉安世は平然としていた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『宋名臣言行録』後集巻十二・劉安世差除の際、公梁燾・朱光庭と每に極力爭論す。呂公之を病む。因りて熙豐の舊人鄧温伯を薦めて翰林承旨と爲す。意うに言官必ず爭わん、因りて以て之を逐わんとするなり。公言う、温伯は熙寧中、王安石・呂惠卿更ミ相い傾陷せしとき、温伯始終反覆して兩黨に出入す。又た蔡確に附きて之が爲に制を草し、其の定策の功有るを稱す、と。罷黜を行わんことを乞う。疏累ミ上るも報ぜられず。即ち疾を引きて告に在り、宮觀を陳乞す。乃ち集賢修撰・提舉西京崇福宮に除せらる。
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『宋名臣言行録』後集巻十二・劉安世公時に喪を執る。服の闋くるを候たずして貶所に赴く。時に公貶所に在り。土豪の進納に緣りて以て仕に入る者有り。因りて厚貲を持して京に入り、以て惇に見えんことを求む。犀珠磊落、賄は僕□に及ぶ。久しくして見ゆるを得ず。其の人直ちに能く公を殺すを以て意を惇に達す。乃ち之に見ゆ。數日ならずして薦めて殿に上らしめ、選人より秩を改め、本路の轉運判官に除す。
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『宋名臣言行録』後集巻十二・劉安世宣仁后晏駕す。呂丞相陵下に使いす。范純仁奏して執政を除せんことを乞い、即ち李清臣を用いて中書侍郎と爲し、鄧温伯を尚書右丞と爲す。時に大臣卒に調停の説を用う。遂に李・鄧の除有り。二人皆な熙豐の黨にして、屢ミ元祐に攻めらる。乃ち先朝の事を以て上意を激怒せしむ。會ミ廷策の進士に、李・鄧策題を撰し、歷ミ元祐の政を詆り、新法を復するの意有り。從いて元祐の諸人を中傷す。公乃ち出でて常山に鎮す。未だ幾ばくならずして元豐の舊人悉く皆な收召せられ、遂に章惇を相とす。言者、公頃ミ蔡確を言うを以て、職を落として南安軍を知らしむ。而して呂丞相も亦た遠竄を免れず。乃ち深く公に媿づ。
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『宋名臣言行録』後集巻十二・劉安世太師平章軍國重事彦博、司空平章軍國事公著、左僕射大防、右僕射純仁、門下侍郎固、左丞存、右丞宗愈の、堂除せる子弟親戚凡そ數十人を歷疏す。且つ曰く、中書侍郎摯は、未だ引く所の私親を見ざるも、其の間に依違して紏正する能わず。雷同循黙、豈に罪無きを得んや。願わくは臣の此の章を出して徧く三省に示し、此れより以往、精を厲まして更始せしめられんことを、と。
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『宋名臣言行録』後集巻十二・劉安世起居舍人に遷り司諫を兼ぬ。公偶ミ家人の爲に乳母を雇う。牙媪以謂えらく有る無し、と。其の故を詰る。因りて言う、内降の指揮あり、見に乳母を求む、と。公怒りて曰く、汝何ぞ敢えて爾か妄言する。且つ今上猶お未だ后を納れず、安んぞ此れ有るを得ん、と。媼云う、内東門司・開封府録、實に其の事に預る、と。公府録と契有り、因りて簡を折りて之を問う。答うること聞く所の如し。