宋名臣言行録 / 後集巻十二・劉安世
差除之際公與梁燾朱光庭每極力爭論吕公病之因薦熙豐舊人鄧溫伯為翰林承㫖意言官必爭因以逐之公言溫伯熙寜中王安石吕惠卿更相傾䧟溫伯始終反覆出入兩黨又附蔡確為之草制稱其有定䇿之功乞行罷黜疏累上不報即引疾在告陳乞宫觀乃除集賢修撰提舉西京崇福宫
新字:差除之際公与梁燾朱光庭毎極力争論呂公病之因薦熙豊旧人鄧温伯為翰林承旨意言官必争因以逐之公言温伯熙寜中王安石呂恵卿更相傾陥温伯始終反覆出入両党又附蔡確為之草制称其有定策之功乞行罷黜疏累上不報即引疾在告陳乞宮観乃除集賢修撰提舉西京崇福宮
書き下し
差除の際、公梁燾・朱光庭と每に極力爭論す。呂公之を病む。因りて熙豐の舊人鄧温伯を薦めて翰林承旨と爲す。意うに言官必ず爭わん、因りて以て之を逐わんとするなり。公言う、温伯は熙寧中、王安石・呂惠卿更ミ相い傾陷せしとき、温伯始終反覆して兩黨に出入す。又た蔡確に附きて之が爲に制を草し、其の定策の功有るを稱す、と。罷黜を行わんことを乞う。疏累ミ上るも報ぜられず。即ち疾を引きて告に在り、宮觀を陳乞す。乃ち集賢修撰・提舉西京崇福宮に除せらる。
現代語訳
任命のたびに、劉安世は梁燾・朱光庭とともに、いつも力の限り争論した。呂大防はこれを苦にした。そこで熙豊時代の旧人である鄧温伯を推薦して翰林承旨とした。言論の官が必ず争うだろうから、それを口実に追い払おうという意図である。劉安世は述べた。「温伯は熙寧年間、王安石と呂恵卿が互いに陥れ合っていたとき、始めから終わりまで態度を翻して両方の党を出入りしました。また蔡確に付き従ってその任命の文を起草し、天子を立てた功があると称えました」。罷免を行うよう求めた。上疏を重ねたが返答はなかった。そこで病と称して休みに入り、宮観の職を願い出た。そして集賢修撰・提挙西京崇福宮に任じられた。
解説
この章句が説くこと
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