宋名臣言行録 / 後集巻十二・劉安世
其後范丞相門人狀范公之行曰使其言行於熙豐時後必不至紛更盡申於元祐中必無紹聖大臣復讎之禍或以此問公公曰微仲堯夫不知君子小人勢不兩立如冰炭故開倖門延入李鄧排去正人易若反掌調停之説果何益乎
新字:其後范丞相門人状范公之行曰使其言行於熙豊時後必不至紛更尽申於元祐中必無紹聖大臣復讎之禍或以此問公公曰微仲堯夫不知君子小人勢不両立如冰炭故開倖門延入李鄧排去正人易若反掌調停之説果何益乎
書き下し
其の後、范丞相の門人范公の行を狀して曰く、其の言をして熙豐の時に行わしめば、後必ず紛更に至らざらん。元祐の中に盡く申べしめば、必ず紹聖の大臣復讎の禍無からん、と。或るひと此を以て公に問う。公曰く、微仲・堯夫は、君子小人の勢い兩立せざること冰炭の如きを知らず。故に倖門を開きて李・鄧を延き入れ、正人を排し去ること反掌よりも易し。調停の説、果して何の益あらんや、と。
現代語訳
その後、范純仁の門人が范公の行状を書いて言った。「もしその言葉が熙豊の時に行われていたなら、後に必ずあの紛乱には至らなかったであろう。元祐の間に十分に述べ尽くされていたなら、必ず紹聖の大臣が復讐する禍いはなかったであろう」。ある人がこのことを劉安世に尋ねた。劉安世は言った。「微仲(呂大防)と堯夫(范純仁)は、君子と小人とが氷と炭のように勢い両立しないことを知らなかった。だから僥倖の門を開いて李清臣と鄧温伯を引き入れ、正しい人々を排除するのは手のひらを返すよりたやすかった。調停の説は、いったい何の益があったのか」。
解説
門人の書いた行状は、和解を惜しむ書き方でした。ところが問われた劉安世の答えは正反対です。**君子と小人とが氷と炭のように勢い両立しないことを知らなかった。**氷と炭は同じ器に入れても混ざらず、どちらかが消えます。だから穏当な人事が、そのまま入口になりました。**僥倖の門を開いて李清臣と鄧温伯を引き入れ、正しい人々を排除するのは手のひらを返すよりたやすかった。**締めは問いの形です。**調停の説は、いったい何の益があったのか。**
この章句が説くこと
其の言をして熙豊の時に行わしめば後必ず紛更に至らざらん微仲・堯夫は君子小人の勢い両立せざること冰炭の如きを知らず故に倖門を開きて李・鄧を延き入れ正人を排し去ること反掌よりも易し調停の説果して何の益あらんや調停対立
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