宋名臣言行録 / 後集巻十二・劉安世
㑹知漢陽軍呉處厚上蔡確安州所為謗詩公即論奏曰確詩十篇多涉譏訕而二篇尤甚借唐為喻謗訕君親至於滄海揚波之語其所包藏尤為悖逆葢□自謂齒髪方盛足以有為意在他日時事變易徼倖復用攄泄禍心此而可舍國法廢矣已而蔡確責授光祿卿分司南京公與梁燾同上疏力争以為責命太輕未厭輿議疏十餘上始竄確於新州
新字:会知漢陽軍呉処厚上蔡確安州所為謗詩公即論奏曰確詩十篇多渉譏訕而二篇尤甚借唐為喩謗訕君親至於滄海揚波之語其所包蔵尤為悖逆葢□自謂歯髪方盛足以有為意在他日時事変易徼倖復用攄泄禍心此而可舎国法廃矣已而蔡確責授光禄卿分司南京公与梁燾同上疏力争以為責命太軽未厭輿議疏十余上始竄確於新州
書き下し
會ミ漢陽軍を知る呉處厚、蔡確が安州にて爲す所の謗詩を上る。公即ち論奏して曰く、確の詩十篇、多く譏訕に涉り、而して二篇尤も甚だし。唐を借りて喻と爲し、君親を謗訕す。滄海揚波の語に至りては、其の包藏する所尤も悖逆と爲す。蓋し□自ら齒髪方に盛んにして以て爲す有るに足ると謂い、意は他日時事變易するに在り、徼倖して復た用いられ、禍心を攄泄せんとするなり。此れにして舍く可くんば、國法廢せん、と。已にして蔡確光祿卿に責授せられ南京に分司す。公梁燾と同に疏を上りて力爭し、以爲えらく責命太だ輕く、未だ輿議に厭かず、と。疏十餘上りて、始めて確を新州に竄す。
現代語訳
ちょうど漢陽軍の知事である呉処厚が、蔡確が安州で作った誹謗の詩を上呈した。劉安世はただちに論じて奏上した。「蔡確の詩十篇は、多くが誹りにわたっており、そのうち二篇はとりわけひどい。唐の事に借りて喩えとし、君主と親とを誹っております。『滄海波を揚ぐ』の語にいたっては、その包み隠しているものはとりわけ道に背いております。おそらく□自分はまだ年歯も髪も盛んで、事をなすに足ると考え、その意中は後日に情勢が変わったとき、僥倖を頼んで再び用いられ、鬱屈した害心を吐き出そうというところにあります。これを見逃してよいのであれば、国の法は廃れます」。まもなく蔡確は光禄卿に降格され、南京に分司とされた。劉安世は梁燾とともに上疏して力争し、処罰があまりに軽く、世論を満足させていないとした。上疏は十余度に及び、ついに蔡確は新州へ流された。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 衛将軍驃騎列伝其の秋、匈奴代に入り、都尉朱英を殺す。其の明年春、大将軍青定襄より出づ。合騎侯敖中将軍と為り、太僕賀左将軍と為り、翕侯趙信前将軍と為り、衛尉蘇建右将軍と為り、郎中令李広後将軍と為り、右内史李沮彊弩将軍と為り、咸大将軍に属し、首を斬ること数千級にして還る。月余にして、悉く復た定襄より出でて匈奴を撃ち、首虜を斬ること万余人。右将軍建・前将軍信軍を并すること三千余騎、独り単于の兵に逢ひ、与に戦ふこと一日余、漢の兵且に尽きんとす。前将軍は故の胡人にして、降りて翕侯と為る。急なるを見て、匈奴之を誘ふ。遂に其の余騎八百可りを将ゐて、奔りて単于に降る。右将軍蘇建尽く其の軍を亡ひ、独り身を以て亡げ去るを得て、自ら大将軍に帰る。大将軍其の罪を正閎・長史安・議郎周霸等に問ふ、「建は当に云何すべき」と。霸曰く、「大将軍の出でしより、未だ嘗て裨将を斬らず。今建軍を棄つ。斬りて以て将軍の威を明らかにすべし」と。閎・安曰く、「然らず。兵法に『小敵の堅は、大敵の禽なり』と。今建は数千を以て単于の数万に当たり、力戦すること一日余、士尽くるも、敢へて二心有らず、自ら帰る。自ら帰りて之を斬るは、是れ後に反る意無からしむるを示すなり。当に斬るべからず」と。大将軍曰く、「青幸ひに肺腑を以て罪を行間に待つを得たり。威無きを患へず。而るに霸我に説くに威を明らかにするを以てするは、甚だ臣の意を失ふ。且つ臣の職をして将を斬るに当たると雖も、臣の尊寵を以てして敢へて自ら擅に誅を境外に専らにせず、而して具に天子に帰し、天子自ら之を裁かば、是に於て以て人臣為りて敢へて権を専らにせざるを見す。亦可ならずや」と。軍吏皆曰く「善し」と。遂に建を囚へて行在所に詣る。塞に入りて兵を罷む。是の歳や、大将軍の姊の子霍去病年十八、幸せられて、天子の侍中と為る。
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史記 東越列伝乃ち便宜を以て兵を案じて大農の軍に告げ、而して使ひをして王の頭を奉じて馳せて天子に報ぜしむ。詔して両将の兵を罷め、曰く、「郢等は首悪なり、独り無諸の孫繇君丑は謀に与らず」と。乃ち郎中将をして丑を立てて越繇王と為し、閩越の先の祭祀を奉ぜしむ。
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『春秋左氏伝』昭公二年 子産、公孫黒を裁く秋、鄭の公孫黑將に亂を作さんとし、游氏を去りて其の位に代はらんと欲す。傷疾作りて果たさず。駟氏と諸大夫と之を殺さんと欲す。子產鄙に在り、之を聞き、及ばざるを懼れ、遽(でんしゃ)に乘りて至る。吏をして之を數(せ)めしめて曰く、「伯有の亂、大國の事を以って、未だ爾を討ぜざるなり。爾亂心有りて厭くこと無し。國女に堪へず。專ら伯有を伐つ、而(なんぢ)の罪一なり。昆弟室を爭ふ、而の罪二なり。薰隧の盟に、女君位を矯む、而の罪三なり。死罪三有り、何を以ってか之に堪へん。速やかに死せずんば、大刑將に至らんとす」と。再拜稽首して辭して曰く、「死は朝夕に在り、天を助けて虐を為すこと無かれ」と。子產曰く、「人誰か死せざらん。凶人の終へざるは、命なり。凶事を作し、凶人と為る。天を助けずして、其れ凶人を助けんや」と。「請ふ印を以って褚師と為さん」と。子產曰く、「印や若し才あらば、君將に之に任ぜん。不才ならば、將に朝夕に女に從はんとす。女罪を之れ恤へずして、又何をか請はん。速やかに死せずんば、司寇將に至らんとす」と。
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『晏子春秋』外篇上・景公欲誅斷所愛橚者晏於諫景公箐室に登りて望み、人の雍門の橚を断つ者有るを見る。公吏をして之を拘えしめ、顧みて晏子に謂い、趣ぎ之を誅せしむ。晏子黙然として対えず。公曰く、「雍門の橚は、寡人の甚だ愛する所なり。比ろ断たるるを見る。故に夫子をして之を誅せしむ。黙然として応えざるは何ぞや」と。晏子対えて曰く、「嬰之を聞く、古の人君出ずれば、則ち道を辟くること十里なるは、畏るるに非ざるなり。冕の前に旒有るは、多く見る所を悪めばなり。纊紘の耳を充たすは、多く聞く所を悪めばなり。泰帯の重さ半鈞、舄履の倍重きは、軽きを欲せざればなり。刑死の罪も、日中の朝に、君之を過ぎれば、則ち之を赦す。嬰未だ嘗て人君と為りて、自ら其の民を坐する者を聞かざるなり」と。公曰く、「之を赦せ。夫子をして復た言わしむる無かれ」と。
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『春秋左氏伝』昭公元年 子産、子南を放つ「國の大節五有り、女(なんぢ)皆之を奸(をか)せり。君の威を畏れ、其の政を聽き、其の貴を尊び、其の長に事へ、其の親を養ふ。五つの者は國を為むる所以なり。今君國に在るに、女兵を用ゐる、威を畏れざるなり。國の紀を奸す、政を聽かざるなり。子皙は上大夫、女は嬖大夫にして、之に下らず、貴を尊ばざるなり。幼にして忌(はばか)らず、長に事へざるなり。其の從兄に兵す、親を養はざるなり。君曰く、『余女を殺すに忍びず、女を宥して以って遠ざけん。勉めて速やかに行け、而(なんぢ)の罪を重ぬること無かれ』と」。五月、庚辰、鄭游楚を吳に放つ。將に子南を行(や)らんとして、子產大叔に咨(はか)る。大叔曰く、「吉は身を亢(まも)ること能はず、焉んぞ能く宗を亢らん。彼は國の政なり、私の難に非ざるなり。子鄭國を圖り、利なれば則ち之を行へ、又何ぞ疑はん。周公は管叔を殺して蔡叔を蔡(はな)てり。夫れ豈に愛せざらんや、王室の故なり。吉若し戾(つみ)を獲ば、子將に之を行はんとす。何ぞ諸游に有らん」と。
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『呻吟語』外篇・治道・民を富ますは王道の首務余は每食肉味無しと雖も、而して蔬食菜羹嘗て足る。因りて嘆じて曰く、「嗟夫、天下をして皆な此の如くならしめて後に盜誅す可きなり」と。枵腹菜色なれば、盜むも亦た死し、盜まざるも亦た死す。夫れ廉を守りて死を俟つは、此れ士君子の難しとする所なり。奈何ぞ士君子の行を能くせざるを以て遂に之を誅せんや。此れ民を富ますが王道の首務為る所以なり。

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