宋名臣言行録 / 後集巻十二・劉摯
今三邊創痍流潰未定河北大旱諸路大水民勞財乏縣官減耗聖上憂勤念治之時而政事如此皆大臣誤陛下而大臣所用者誤大臣也居數日罷御史貶衡州
新字:今三辺創痍流潰未定河北大旱諸路大水民労財乏県官減耗聖上憂勤念治之時而政事如此皆大臣誤陛下而大臣所用者誤大臣也居数日罷御史貶衡州
書き下し
今三邊創痍し、流潰未だ定まらず。河北大旱し、諸路大水す。民勞し財乏しく、縣官減耗す。聖上憂勤して治を念う時に、而も政事此くの如し。皆な大臣陛下を誤り、而して大臣の用うる所の者大臣を誤るなり、と。居ること數日、御史を罷めて衡州に貶せらる。
現代語訳
「いま三方の辺境は傷つき、流民の潰乱もまだ収まっていません。河北は大旱、諸路は大水です。民は疲れ、財は乏しく、地方官庁の蓄えも減っています。天子が憂え励んで治世を念じておられるこの時に、政事はこのありさまです。すべては大臣が陛下を誤らせ、そして大臣の使っている者たちが大臣を誤らせているのです」。それから数日して、御史を罷免され、衡州に左遷された。
解説
被害の列挙を並べたうえで、責任の所在を二段で置きました。すべては大臣が陛下を誤らせ、そして大臣の使っている者たちが大臣を誤らせているのです。君主を直接責めていません。しかも大臣で止めず、その下の実務者まで下ろしました。上に立つ人が誤るとき、その人もまた誰かの情報で動いている、という見方です。結末は短く書かれます。それから数日して、御史を罷免され、衡州に左遷された。十害を数えた上疏の代価が、この一行でした。
この章句が説くこと
今三辺創痍し流潰未だ定まらず民労し財乏しく県官減耗す皆な大臣陛下を誤り而して大臣の用うる所の者大臣を誤るなり居ること数日御史を罷めて衡州に貶せらる責任左遷
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