宋名臣言行録 / 前集巻三・張詠
公自金陵入苦腦疽未陛見御史閤門累奏上寛其告俾養疾公恨不得面陳所懐乃抗論近年虚國家帑藏竭生民膏血以奉無用之土木者皆賊臣丁謂王欽若啓上侈心之所為也不誅死無以謝天下章三上不報出知陳州
新字:公自金陵入苦脳疽未陛見御史閤門累奏上寛其告俾養疾公恨不得面陳所懐乃抗論近年虚国家帑蔵竭生民膏血以奉無用之土木者皆賊臣丁謂王欽若啓上侈心之所為也不誅死無以謝天下章三上不報出知陳州
書き下し
公、金陵より入る。腦疽に苦しみて未だ陛見せず。御史・閤門累々奏す。上、其の告を寛くして疾を養わしむ。公、面のあたり懐う所を陳ぶるを得ざるを恨む。乃ち抗論す、近年、國家の帑藏を虚しくし、生民の膏血を竭くして、以て無用の土木に奉ずる者は、皆な賊臣丁謂・王欽若、上の侈心を啟く所の為す所なり。誅せずんば死すとも以て天下に謝する無しと。章三たび上るも報ぜられず。出でて陳州を知る。
現代語訳
公は金陵から都に入った。脳の腫れ物に苦しんで、まだ拝謁できずにいた。御史や閤門がたびたび奏上した。帝はその休みを寛くして病を養わせた。公は、面と向かって思うところを述べられないことを残念に思った。そこで強く論じた。「近年、国家の蔵を空にし、民の脂と血を尽くして、役に立たない土木に捧げているのは、みな賊臣の丁謂と王欽若が、主上の驕り高ぶる心を開かせたことによるものです。誅さなければ、死んでも天下に申し開きができません」。上表は三度出したが返答は無かった。都を出て陳州の長官となった。
解説
病で拝謁できないまま、上表で名指しした条です。国家の蔵を空にし、民の脂と血を尽くして役に立たない土木に捧げているのは、丁謂と王欽若が主上の驕る心を開かせたからだ、誅さなければ死んでも天下に申し開きができない。李沆が予言し、王旦が晴れないまま留まった、その同じ事態です。ここでは正面から名指ししました。上表は三度出して返答が無く、地方へ出されています。
この章句が説くこと
国家の帑蔵を虚しくし生民の膏血を竭くして以て無用の土木に奉ず皆な賊臣丁謂王欽若上の侈心を啓く所の為す所なり皆な賊臣丁謂王欽若上の侈心を啟く所の為す所なり章三たび上るも報ぜられず出でて陳州を知る諫言名指し
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