宋名臣言行録 / 後集巻十一・蘓頌
知滄州陛辭上曰朕每欲用卿輙為事奪豈非命邪然卿直道久而自明頓首謝兼語及偏親留京師未能偕行上問卿母誰氏對曰故龍圖直學士陳從易之女上曰是天聖間侍從邪對曰從易祥符中館職巳而外遷久之因自廣州罷還不蓄南物獨載俸餘見錢過嶺仁宗聞之擢知制誥上曰其清節過於馬援矣故謝表云憫臣之數竒多難特軫淵衷勉臣以直道自明屢形天語
新字:知滄州陛辞上曰朕毎欲用卿輙為事奪豈非命邪然卿直道久而自明頓首謝兼語及偏親留京師未能偕行上問卿母誰氏対曰故竜図直学士陳従易之女上曰是天聖間侍従邪対曰従易祥符中館職巳而外遷久之因自広州罷還不蓄南物独載俸余見銭過嶺仁宗聞之擢知制誥上曰其清節過於馬援矣故謝表云憫臣之数奇多難特軫淵衷勉臣以直道自明屢形天語
書き下し
滄州を知り、陛辭す。上曰く、朕每に卿を用いんと欲するも、輒ち事の爲に奪わる。豈に命に非ずや。然れども卿の直道は、久しくして自ら明らかなり、と。頓首して謝す。兼ねて語、偏親の京師に留まりて未だ偕に行く能わざるに及ぶ。上問う、卿の母は誰氏ぞ、と。對えて曰く、故龍圖直學士陳從易の女なり、と。上曰く、是れ天聖間の侍從か、と。對えて曰く、從易は祥符中の館職なり。巳にして外に遷ること久し。因りて廣州より罷め還るに、南の物を蓄えず、獨り俸餘の見錢を載せて嶺を過ぐ。仁宗之を聞きて知制誥に擢づ、と。上曰く、其の清節は馬援に過ぎたり、と。故に謝表に云う、臣の數竒多難を憫れみ、特に淵衷を軫ましめ、臣を勉ますに直道は久しくして自ら明らかなるを以てすること、屢ミ天語に形わる、と。
現代語訳
滄州の知事となって、天子に暇乞いをした。天子は言った。「朕はそのたびにそなたを用いようとするのに、いつも別の事情で奪われてしまう。これも運命であろうか。しかしそなたの真っ直ぐな道は、時が経てばおのずと明らかになる」。蘇頌は頓首して礼を述べた。あわせて、年老いた母が都に留まっていて共に行けないことに話が及んだ。天子が尋ねた。「そなたの母はどこの家の人か」。答えて言った。「亡き龍図直学士・陳従易の娘でございます」。天子は言った。「それは天聖年間の侍従か」。答えて言った。「従易は祥符年間の館職でございました。その後、長く地方に出ておりました。広州から任を解かれて帰るとき、南方の産物をいっさい蓄えず、ただ俸給の余りの現銭だけを載せて嶺を越えました。仁宗はこれをお聞きになって知制誥に抜擢されたのです」。天子は言った。「その清らかな節操は、馬援を超えている」。だから礼を述べる上表にこう書いた。臣の不運と多難を憐れみ、わざわざお心を痛めてくださり、臣を励ますのに「真っ直ぐな道は時が経てばおのずと明らかになる」との言葉をもってされたことが、たびたび天子のお言葉に現れております、と。
解説
この章句が説くこと
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『宋名臣言行録』後集巻十一・蘓頌公嘗て云う、吾平生未だ嘗て私事を以て人主に干めず。奏對は惟だ義理の言のみ。故に四朝に歷仕し、中間謫せらると雖も、過ちを觀るに愧じず。而して神考以謂えらく、直は久しくして自ら明らかなり、と。
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『宋名臣言行録』後集巻十一・蘓頌公天官を掌る。選人の官を改め、京朝官・使臣の關陞・磨勘、或いは功過を以て陞降に當たる者有る每に、吏は垢を洗いて瑕を求め、故らに稽滯を爲す。公吏に敕して曰く、某官は某事に緣りて當に某處に會すべし。仍お合に用うべき條格を引き、具さに漏落無きの狀を委ねて同に上れ、と。是れより吏逞しくするを得ず。訴うる者至る每に、必ず案牘を取りて自ら省閲せしむ。訴うる者服して乃ち退く。其の服せざれば、公必ず往復して詰難し、行う可きを度りて之を行う。苟くも疑い有れば則ち之が爲に奏請し、或いは都堂に建白す。故に士大夫の賜を受くる者多くして、得ざる者も亦た以て憾む可き無しと爲す。
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『宋名臣言行録』後集巻九・蘇轍轍年十九にして進士に舉げられ褐を釋く。二十三にして直言に舉げらる。仁宗親ら之を廷に策す。時に上春秋髙く、始めて勤に倦む。轍問う所に因りて得失を極言す。策入りて轍自ら必ず黜けらると謂う。然れども考官司馬君實第するに三等を以てす。范景仁之を難ず。蔡君謨曰く、吾は三司使なり。司會の言、吾之を愧じて敢えて怨まずと。惟だ胡武平のみ以て不遜と爲し、力めて之を黜けんことを請う。上曰く、直言を以て人を召して直を以て之を棄てば、天下我を何とか謂わんと。宰相已むを得ず、之を下第に寘き、啇州軍事推官を除す。
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『宋名臣言行録』後集巻四・蔡襄御史呂景初・吳中復・馬遵、梁丞相を論ずるに坐して臺職を罷められ、他官を除せらる。公詞頭を封じ還して制を草せず。其の後屢ミ除授の當たらざる者有れば、必ず皆之を封じ還す。而して上公に遇すること益ミ厚し。曰く、子有ること此くの如し。其の母の賢なるを知る可しと。命じて特に冠帔を賜いて以て之を寵む。
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『宋名臣言行録』後集巻九・蘇軾公言う、頃ろ制科に試みて程に中りし後、英宗即ち便ち知制誥を授けんと欲す。相國韓公曰く、軾の材は遠大の器なり。他日自ら當に天下の用と爲るべし。要は朝廷之を培養し、天下の士をして畏慕降伏せざる莫く、皆朝廷の之を進用せんことを欲せしめ、然る後に取りて之を用うれば則ち人人復た異辭無からん。今驟かに之を用うれば則ち士は未だ必ずしも以て然りと爲さず。適ま以て之を累わすに足るのみと。乃ち直史館を授く。公之を聞きて曰く、韓公は人を愛するに德を以てすと謂う可しと。
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『宋名臣言行録』後集巻十四・陳襄熙寧二年、陳述古學士襄、右史より臺雜に遷る。近例に左右次に知制誥を補す。臺雜は乃ち三司副使に叙遷す。是に於いて特に旨を降して□知制誥の闕、召試に與らしむ。襄辭して曰く、陛下義を以て臣を使わば、則ち臣敢えて惟だ命是れ聽かざらんや。豈に資地を計較して以て輕重と爲す可けんや。况んや義の在る所、知りて言わざる無し。夫れ豈に鈇鑕の前に在りて寵祿の後に居るを知らんや。一たび利を顧み害を避くるの心有らば、則ち依違姑息、至らざる所無し。身且つ正しからず、焉んぞ能く人を正さんや、と。乃ち前命を追寝するを許す。明年、青苗の事を言うを以て復た右史と爲る。又た歲餘にして始めて誥命を掌る。