宋名臣言行録 / 後集巻九・蘇轍
轍年十九舉進士釋褐二十三舉直言仁宗親䇿之於廷時上春秋髙始倦於勤轍因所問極言得失䇿入轍自謂必見黜然考官司馬君實第以三等范景仁難之蔡君謨曰吾三司使也司會之言吾愧之而不敢怨惟胡武平以為不遜力請黜之上曰以直言召人而以直棄之天下謂我何宰相不得已寘之下第除啇州軍事推官
新字:轍年十九舉進士釈褐二十三舉直言仁宗親策之於廷時上春秋高始倦於勤轍因所問極言得失策入轍自謂必見黜然考官司馬君実第以三等范景仁難之蔡君謨曰吾三司使也司会之言吾愧之而不敢怨惟胡武平以為不遜力請黜之上曰以直言召人而以直棄之天下謂我何宰相不得已寘之下第除啇州軍事推官
書き下し
轍年十九にして進士に舉げられ褐を釋く。二十三にして直言に舉げらる。仁宗親ら之を廷に策す。時に上春秋髙く、始めて勤に倦む。轍問う所に因りて得失を極言す。策入りて轍自ら必ず黜けらると謂う。然れども考官司馬君實第するに三等を以てす。范景仁之を難ず。蔡君謨曰く、吾は三司使なり。司會の言、吾之を愧じて敢えて怨まずと。惟だ胡武平のみ以て不遜と爲し、力めて之を黜けんことを請う。上曰く、直言を以て人を召して直を以て之を棄てば、天下我を何とか謂わんと。宰相已むを得ず、之を下第に寘き、啇州軍事推官を除す。
現代語訳
蘇轍は十九歳で進士に挙げられ、初めて官に就いた。二十三歳で直言の科に挙げられた。仁宗は自ら朝廷で策問した。当時、天子は年高く、政務に倦みはじめていた。蘇轍は問われたことに沿って、得失を徹底して述べた。答案が入って、蘇轍は自分で必ず落とされると思った。ところが考査官の司馬光は三等の評点をつけた。范鎮はこれを難じた。蔡襄は言った。「私は三司使である。会計を司る者への言葉は、私は恥じ入るばかりで、あえて怨まない」。ただ胡宿だけが不遜であるとして、力を尽くしてこれを落とすよう願い出た。天子は言った。「率直な言葉を求めて人を召しておいて、率直であることを理由にこれを棄てたなら、天下は私を何と言うだろうか」。宰相はやむを得ず、これを下位で合格させ、商州軍事推官に任じた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 淮南衡山列伝不害に子建有り、材高く気有り、常に太子の其の父を省みざるを怨望す。又時の諸侯皆子弟を分かちて侯と為すを得、而して淮南は独り二子、一は太子為り、建の父独り侯と為るを得ざるを怨む。建陰に結交し、告げて太子を敗り、其の父を以て之に代へんと欲す。太子之を知り、数々捕繋して建を榜笞す。建具に太子の謀りて漢の中尉を殺さんと欲するを知り、即ち善くする所の寿春の荘芷をして以て天子に上書せしめて曰く、「毒薬は口に苦くして病に利あり、忠言は耳に逆らひて行ひに利あり。今淮南王の孫建、材能高し、淮南王の王后荼、荼の子太子遷常に建を疾害す。建の父不害罪無きに、擅に数々捕繋し、之を殺さんと欲す。今建在り、徴して問ふべし、具に淮南の陰事を知る」と。書聞せられ、上其の事を以て廷尉に下し、廷尉河南に下して治む。是の時故の辟陽侯の孫審卿丞相公孫弘に善し、淮南厲王の其の大父を殺すを怨み、乃ち深く淮南の事を弘に購ふ、弘乃ち淮南に畔逆の計謀有るを疑ひ、深く其の獄を窮治す。河南建を治む、辞淮南の太子及び党与を引く。淮南王之を患ひ、発せんと欲し、伍被に問ひて曰く、「漢廷は治まるか乱るるか」と。伍被曰く、「天下治まれり」と。王意説ばず、伍被に謂ひて曰く、「公何を以て天下治まれりと言ふや」と。被曰く、「被窃かに朝廷の政を観るに、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、皆其の理を得、上の挙錯は古の道に遵ひ、風俗紀綱未だ欠くる所有らざるなり。重装の富賈、天下を周流し、道通ぜざる無し、故に交易の道行はる。南越賓服し、羌僰入りて献じ、東甌入りて降り、長楡を広め、朔方を開き、匈奴翅を折り翼を傷つけ、援けを失ひて振るはず。未だ古の太平の時に及ばずと雖も、然れども猶ほ治まれりと為すなり」と。王怒る、被死罪を謝す。
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呂氏春秋・貴直①賢主の貴ぶ所は士に如くは莫し。士を貴ぶ所以は、其の直言の為なり。言直なれば則ち枉れる者見ゆ。人主の患いは、枉れるを聞かんと欲して直言を惡む。是れ其の源を障ぎて其の水を欲するなり。水奚に自りてか至らん。是れ其の欲する所を賤しみて、其の惡む所を貴ぶなり。欲する所奚に自りてか來たらん。
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『春秋左氏伝』昭公八年 陳の滅亡冬、十一月、壬午、陳を滅ぼす。輿嬖袁克、馬を殺し玉を毀ちて以って葬る。楚人將に之を殺さんとす。之を寘かんことを請ふ。既にして又私せんことを請ふ。幄に私し、絰を顙に加へて逃る。穿封戌をして陳公為らしめて曰く、「城麇の役に諂はず」と。王に侍して酒を飲む。王曰く、「城麇の役、女寡人の此に及ぶを知らば、女其れ寡人を辟けんか」と。對へて曰く、「若し君の此に及ぶを知らば、臣必ず死を致して禮もて以って楚を息めん」と。晉侯史趙に問ひて曰く、「陳其れ遂に亡びんか」と。對へて曰く、「未だし」と。公曰く、「何の故ぞ」と。對へて曰く、「陳は顓頊の族なり。歲鶉火に在りて、是を以って卒に滅ぶ。陳も將に之の如くならん。今析木の津に在り、猶ほ將に復た由らんとす。且つ陳氏齊に政を得て、而る後に陳卒に亡びん。幕より瞽瞍に至るまで、命に違ふ無し。舜之に重ぬるに明德を以ってし、德を遂に寘く。遂世々之を守る。胡公の淫せざるに及び、故に周之に姓を賜ひ、虞帝を祀らしむ。臣聞く、盛德は必ず百世祀らる、と。虞の世數未だし。繼ぎて守るは將に齊に在らんとす。其の兆既に存せり」と。
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『正法眼蔵随聞記』巻五示して云く、昔し国王あり、国を治て後ちに諸の臣下に問ふ、我好く国を治む、よく賢なりやと、諸臣みな云く、帝甚だよく治む、太だ賢なりと、時に一臣ありて云く、帝は賢ならずと、帝の云く故は如何、臣が云く、国を治て後ち、帝の弟に与へずして息に与ふと、帝の心にかなはずして、追ひ立られて後、亦一臣に問ふ、朕よく仁なりや、臣が云く、甚だ仁なり、帝の云く、其の故いかん、臣が云く、仁君には必ず忠臣あり、忠臣は直言あるなり、前きの臣太だ直言なり、是れ忠臣なり、仁君にあらずんば得じと、帝是を感じて、即ち前きの臣をめしかへさるゝなり、
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史記 袁盎鼂錯列伝然れども袁盎も亦数(しばしば)直諫するを以て、久しく中に居るを得ず、調されて隴西の都尉と為る。士卒を仁愛し、士卒皆争ひて為に死す。遷りて斉の相と為る。徙りて呉の相と為る。辞して行くに、種盎に謂ひて曰く、「呉王驕ること日久しく、国に姦多し。今苟も劾治せんと欲せば、彼上書して君を告げずんば、即ち利剣もて君を刺さん。南方は卑湿なり、君能く日に飲み、何もする毋く、時に王に説きて反する毋かれと曰ふのみ。此の如くせば幸ひに脱るるを得ん」と。盎種の計を用ひ、呉王厚く盎を遇す。盎告帰し、道に丞相申屠嘉に逢ひ、車を下りて拝謁す。丞相車上より袁盎に謝す。袁盎還りて、其の吏に愧ぢ、乃ち丞相の舎に之きて上謁し、丞相に見えんことを求む。丞相良久しくして之を見る。盎因りて跪きて曰く、「願はくは閒を請はん」と。丞相曰く、「使君の言ふ所公事ならば、曹に之きて長史掾と議せよ、吾且に之を奏せんとす。即し私ならば、吾私語を受けず」と。袁盎即ち跪きて説きて曰く、「君丞相と為り、自ら度るに陳平・絳侯と孰れぞ」と。丞相曰く、「吾如かず」と。袁盎曰く、「善し、君即ち自ら如かずと謂ふ。夫れ陳平・絳侯は高帝を輔翼して天下を定め、将相と為りて、諸呂を誅し、劉氏を存す。君は乃ち材官蹶張(けっちょう)為りて、遷りて隊率と為り、功を積みて淮陽の守に至る。奇計攻城野戦の功有るに非ず。且つ陛下代より来たり、朝する毎に、郎官書疏を上れば、未だ嘗て輦を止めて其の言を受けずんばあらず。言用ふべからざれば之を置き、言受くべければ之を採り、未だ嘗て善しと称せずんばあらず。何ぞや。則ち以て天下の賢士大夫を致さんと欲すればなり。上は日に聞かざる所を聞き、知らざる所を明らかにし、日に益ます聖智なり。君今自ら天下の口を閉鉗して日に益ます愚なり。夫れ聖主を以て愚相を責む、君禍を受くること久しからず」と。丞相乃ち再拝して曰く、「嘉は鄙野の人、乃ち知らず、将軍幸ひに教へよ」と。引き入れて与に坐し、上客と為す。
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『講孟余話』離婁下 第九章十一月十二日。此の章註に「為にする有りて言ふ」とあり、此の義深く講究すべし。君子の語黙動静は、義に合ふと義に合はぬとを顧るのみ、何ぞ後患の有無を論ぜんや。若し後患を懼るる故にて、人の不善を言はざるを以て道とせば、唐の韓退之が「史を為る者は人禍あらざれば則ち天刑あり、畏懼せずして軽々しく之れを為すべけんや」と云ふと同日の論にて、甚だ非なり。柳宗元の駁する如く、凡そ其の位に居ては其の道を直くせんことを思ふ、刑禍は懼るる所に非ずとの論、最も其の正を得たり。然れども職にも非ずして好んで人を誹謗し、其の不善を言ひて無益の刑禍を買ふは、亦愚昧の至りと云ふべし。故に孟子斯の人の為めに是の言を発し之れを誡むるなり。故に「為にする有りて言ふ」と註するなり。

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