宋名臣言行録 / 後集巻十一・范純仁
紹聖初哲宗親政用李清臣為中書侍郎范丞相純臣與清臣論事不合范公求去帝不許范公堅辭帝不得巳除觀文殿大學士判頴昌府召章惇為相未至清臣獨當中書益覬倖相位復行免役青苖法除諸路常平使者惇至不能容以事中之清臣出知北京
新字:紹聖初哲宗親政用李清臣為中書侍郎范丞相純臣与清臣論事不合范公求去帝不許范公堅辞帝不得巳除観文殿大学士判頴昌府召章惇為相未至清臣独当中書益覬倖相位復行免役青苖法除諸路常平使者惇至不能容以事中之清臣出知北京
書き下し
紹聖の初め哲宗親政し、李清臣を用いて中書侍郎と爲す。范丞相純仁清臣と事を論じて合わず。范公去るを求む。帝許さず。范公堅く辭す。帝已むを得ず觀文殿大學士・判頴昌府を除す。章惇を召して相と爲さんとするも未だ至らず。清臣獨り中書に當たり、益ミ相位を覬倖す。復た免役・青苗の法を行い、諸路の常平使者を除す。惇至りて容るる能わず、事を以て之を中つ。清臣出でて北京を知す。
現代語訳
紹聖のはじめ、哲宗が親政し、李清臣を用いて中書侍郎とした。范純仁は李清臣と事を論じて合わなかった。范純仁は辞去を求めた。天子は許さなかった。范純仁は固く辞した。天子はやむを得ず、観文殿大学士・判潁昌府に任じた。章惇を召して宰相にしようとしたが、まだ到着していなかった。李清臣は一人で中書に当たり、いよいよ宰相の位を望んだ。あらためて免役・青苗の法を行い、諸路の常平使者を任じた。章惇が到着すると受け入れられず、事にかこつけてこれを陥れた。李清臣は出て北京の知事となった。
解説
空白の期間に、一人で走った話です。**章惇を召して宰相にしようとしたが、まだ到着していなかった。李清臣は一人で中書に当たり。**上が不在の間に、既成事実を作りにいきました。動機も書かれています。**いよいよ宰相の位を望んだ。**そして到着した相手にとって、それは自分の場所を先に取られたことでした。**章惇が到着すると受け入れられず、事にかこつけてこれを陥れた。**先に走ったことが、そのまま失脚の理由になっています。
この章句が説くこと
紹聖の初め哲宗親政し李清臣を用いて中書侍郎と為す范丞相純仁清臣と事を論じて合わず范公去るを求む清臣独り中書に当たり益ミ相位を覬倖す惇至りて容るる能わず事を以て之を中つ親政辞去
関連する章句
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『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁其の出だす所と外除及び朝に入らしめざる者は皆賢士にして、清臣素より憚る所、得て用う可からざる者なり。忠彦懦なること甚だしく之が爲に主たる能わず。曾布右相と爲り范致虚を用う。諫疏に云う、河北の三帥は連衡す。恐らくは社稷の福に非ずと。劉安世・呂希純同日に罷を報ぜらる。清臣も亦た布の陷るる所と爲り、出でて北京を知す。
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『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁建中靖國の初め上皇即位す。韓忠彦を用いて相と爲し、清臣を門下侍郎と爲す。忠彦と清臣と婚有り。故に忠彦は惟だ清臣の言のみ是れ聽く。清臣復た事を用う。范右丞純禮は忠彦の薦むる所なるに清臣之を罷む。劉安世・呂希純は皆忠彦の重んずる所なるに、清臣朝に入らしめず、外に安世を除して定武に帥たらしめ、希純を髙陽に帥たらしむ。張舜民は忠彦薦めて諫大夫と爲さんとするに、清臣之を出して眞定に帥たらしむ。
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『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁伯温常に論ずるに、紹聖・建中靖國の初め、朝廷の邪正治亂未だ定まらざるの際、皆一の李清臣の私意を以て相位を幸いて之を壞せしと爲す。邪説既に勝ち衆小人並び進む。清臣も自ら亦た朝に立つ能わざるなり。清臣をして紹聖の初めに范丞相と同じくし、建中靖國の初めに范右丞・劉安世・呂希純・張舜民と同じくして、公議正論を以て共に國事を濟さしめば、則ち朝廷に後日の禍無く、而して清臣も亦た相位を得て美名を享けん。此れ忠臣義士の一時治亂の機を惜しみて之が爲に流涕する者なり。
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『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁哲宗親政す。呂汲公殿中侍御史楊畏を遷して諫議大夫と爲さんと欲す。忠宣曰く、天子の諫官は當に正人を用うべし。楊畏は用う可からずと。汲公方に畏を約して助と爲さんとす。忠宣に謂いて曰く、豈に楊畏の嘗て公を言えるを以てかと。忠宣曰く、知らざるなりと。蓋し上初め忠宣を召せしとき、畏嘗て言有りて上行わず。忠宣故に知らざるなり。忠宣因りて政を罷めんことを乞う。上許さず。後に楊畏首めに汲公に叛き、凡そ以て汲公を害す可き者は至らざる所無し。
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『宋名臣言行録』後集巻十一・范純仁給事中を除せらる。時に哲宗宣仁太后と政を共にす。司馬温公相に入り首めに差役法を改む。公之を聞き人に謂いて曰く、此の事は當に熟く講じて緩やかに行うべし。然らずんば滋ミ民の病と爲らん。且つ宰相の職は人を求むるに在り。法を變ずるは先んずる所に非ざるなりと。朝に還りて力めて温公の爲に之を言う。温公建請する所有り。公復た言う、宰相は當に心を虚しくして以て衆論を延くべし。必ずしも謀の自ら己より出づるを以てせず。謀自ら己より出づれば則ち諂諛は間に乘じて迎合するを得て、正士は將に懷を巻きて退避せんとすと。公と温公と志を同じくすと雖も、事に臨みて矯正する所有ること類ミ此くの如し。是に於いて人皆公の平直に服す。
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