宋名臣言行録 / 後集巻九・蘇軾
嘉祐二年歐文忠公考試禮部進士疾時文之詭異思有以救之梅聖俞時與其事得公論刑賞以示歐公歐公驚喜以為異人欲以冠多士疑曽子固所為子固歐公門下士也乃寘公第二復以春秋對義居第一以書謝諸公歐公見之以書語聖俞曰老夫當避此人放出一頭地士聞始譁不厭久乃信服
新字:嘉祐二年欧文忠公考試礼部進士疾時文之詭異思有以救之梅聖兪時与其事得公論刑賞以示欧公欧公驚喜以為異人欲以冠多士疑曽子固所為子固欧公門下士也乃寘公第二復以春秋対義居第一以書謝諸公欧公見之以書語聖兪曰老夫当避此人放出一頭地士聞始譁不厭久乃信服
書き下し
嘉祐二年、歐文忠公禮部の進士を考試す。時文の詭異なるを疾み、以て救う有らんことを思う。梅聖兪時に其の事に與る。公の刑賞を論ずるを得て以て歐公に示す。歐公驚喜して以て異人と爲し、以て多士に冠せんと欲す。曾子固の爲す所かと疑う。子固は歐公門下の士なり。乃ち公を第二に寘く。復た春秋の對義を以て第一に居る。書を以て諸公に謝す。歐公之を見て書を以て聖兪に語りて曰く、老夫當に此の人を避けて一頭地を放出すべしと。士聞きて始め譁として厭わず、久しくして乃ち信服す。
現代語訳
嘉祐二年、欧陽脩が礼部の進士を考査した。当時の文章が奇をてらっているのを憎み、これを救う手立てを思っていた。梅堯臣は当時その事にあずかっていた。公の「刑賞を論ず」の答案を得て、欧陽脩に示した。欧陽脩は驚き喜んで並外れた人物とし、多くの士の首席に置こうとした。曾鞏の書いたものではないかと疑った。曾鞏は欧陽脩の門下の士である。そこで公を第二に置いた。あらためて春秋の対義で第一となった。書状で諸公に礼を述べた。欧陽脩はそれを見て、書状で梅堯臣に語って言った。「老いぼれはこの人に道を譲って、一つ抜きん出させてやるべきだ」。士は聞いてはじめ騒がしく承服しなかったが、久しくしてようやく信服した。
解説
この章句が説くこと
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