宋名臣言行録 / 前集巻十・石介
慶歴三年吕夷簡罷相夏竦罷樞使而杜衍章得象晏殊賈昌朝范仲淹富弼韓琦同時執政歐陽修余靖王素蔡襄並為諫官先生喜曰此盛事也歌頌吾職其可巳乎乃作慶歴聖徳詩略曰衆賢之進如茅斯㧞大奸之去如距斯脫衆賢謂衍等大姦斥竦也詩且出泰山先生見之曰子禍始於此矣先生不自安求出通判濮州
新字:慶歴三年呂夷簡罷相夏竦罷枢使而杜衍章得象晏殊賈昌朝范仲淹富弼韓琦同時執政欧陽修余靖王素蔡襄並為諫官先生喜曰此盛事也歌頌吾職其可巳乎乃作慶歴聖徳詩略曰衆賢之進如茅斯抜大奸之去如距斯脫衆賢謂衍等大姦斥竦也詩且出泰山先生見之曰子禍始於此矣先生不自安求出通判濮州
書き下し
慶暦三年、吕夷簡相を罷め、夏竦樞使を罷めて、杜衍・章得象・晏殊・賈昌朝・范仲淹・富弼・韓琦、同時に政を執る。歐陽修・余靖・王素・蔡襄、並びに諫官と爲る。先生喜びて曰く、此れ盛事なり。歌頌は吾が職なり、其れ巳む可けんやと。乃ち慶暦聖徳詩を作る。略に曰く、衆賢の進むこと茅の斯に㧞かるるが如く、大奸の去ること距の斯に脱するが如しと。衆賢は衍等を謂い、大姦は竦を斥すなり。詩且に出でんとし、泰山先生之を見て曰く、子の禍、此に始まらんと。先生自ら安んぜず、出でて濮州に通判たらんことを求む。
現代語訳
慶暦三年(一〇四三)、呂夷簡が宰相を罷め、夏竦が枢密使を罷めて、杜衍・章得象・晏殊・賈昌朝・范仲淹・富弼・韓琦が同時に政を執った。欧陽脩・余靖・王素・蔡襄がそろって諫官となった。石介は喜んで言った。「これは盛んな出来事だ。ほめ歌うのは私の職分である。どうしてやめられようか」。そして「慶暦聖徳詩」を作った。その一部にこうある。「多くの賢者が進むのは、茅を引き抜けば根が連なって出てくるようであり、大いなる奸が去るのは、けづめが抜け落ちるようだ」。多くの賢者とは杜衍らを指し、大いなる奸とは夏竦を名指ししたものである。詩が世に出ようとしたとき、泰山先生(孫復)がこれを見て言った。「君の禍は、ここから始まるだろう」。石介は落ち着いていられず、外に出て濮州の通判となることを願い出た。
解説
この章句が説くこと
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論語・子罕篇子曰く、法語の言は、能く従うこと無からんや。之を改むるを貴しと為す。巽与の言は、能く説ばざらんや。之を繹ぬるを貴しと為す。説びて繹ねず、従いて改めずんば、吾之を如何ともする末きのみ。
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論語・子罕篇子曰く、「敝れたる縕袍を衣て、狐貉を衣たる者と立ちて、恥じざる者は、其れ由なるか。『忮わず求めず、何を用てか臧からざらん。』」子路終身之を誦す。子曰く、「是の道や、何ぞ以て臧しとするに足らん。」
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『韓非子』難一第三十六舜の敗を救うは、則ち是れ堯に失有ればなり。舜を賢とせば、則ち堯の明察を去る。堯を聖とせば、則ち舜の徳化を去る。両つながら得可からざるなり。
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論語・公冶長篇子、子賤を謂いて曰く、『君子なるかな、若(か)の人!魯に君子無くんば、斯れ焉(いずく)んぞ斯れを取らんや。』
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修濮議は初め公より出でず。臺諫の言有るに及び、公獨り入りて朝に辨ず。故に議する者、公を指して立議の人と爲す。公自ら辨ぜず。唯だ曰く、今人濮議を以て非と爲し、我をして獨り罪に當たらしめば、則ち韓・曾二公は宜しく我に愧ずる有るべし。後世濮議を以て是と爲して獨り我が善を稱せば、則ち我宜しく二公に愧ずべしと。又た濮議四巻を撰し、悉く當時の議論の本末を記すこと甚だ詳らかなり。又た五代史記に晉元帝の父敬儒・周世宗の父柴守禮の事及び李彦詢傳に於いて、人倫父子の道を發明すること尤も詳悉たり。