宋名臣言行録 / 後集巻九・蘇軾
公生十年而先君宦學四方太夫人親授以書聞古今成敗輙能語其要太夫人嘗讀東漢史至范滂傳慨然太息公侍側曰某若為滂夫人亦許之否乎太夫人曰汝能為滂吾顧不能為滂母耶
新字:公生十年而先君宦学四方太夫人親授以書聞古今成敗輙能語其要太夫人嘗読東漢史至范滂伝慨然太息公侍側曰某若為滂夫人亦許之否乎太夫人曰汝能為滂吾顧不能為滂母耶
書き下し
公生まれて十年にして先君四方に宦學す。太夫人親ら之に授くるに書を以てす。古今の成敗を聞けば輒ち能く其の要を語る。太夫人嘗て東漢の史を讀みて范滂傳に至り、慨然として太息す。公側に侍りて曰く、某若し滂と爲らば、夫人も亦た之を許すや否やと。太夫人曰く、汝能く滂と爲らば、吾かえりて滂の母と爲る能わざらんやと。
現代語訳
公が生まれて十年、父は各地で官に就き学んでいた。母の太夫人が自ら書を授けた。古今の成功と失敗を聞けば、すぐその要点を言うことができた。太夫人がかつて後漢の史書を読んで范滂の伝に至り、深く感じ入って嘆息した。公はそばに侍って言った。「私がもし范滂のようになったら、母上もそれをお許しになりますか」。太夫人は言った。「おまえが范滂になれるのなら、私のほうが范滂の母になれないはずがあろうか」。
解説
范滂は党錮の禍で処刑された人です。母に暇乞いをして刑に就いた。その伝を読んで嘆息した母に、十歳の子が問いました。**私がもし范滂のようになったら、母上もそれをお許しになりますか。**許すかどうかを聞いている。答えが、許可ではありませんでした。**おまえが范滂になれるのなら、私のほうが范滂の母になれないはずがあろうか。**問いを返しています。おまえが覚悟するなら、私にも同じ覚悟がある、と。後にこの人は筆禍で獄に下ります。
この章句が説くこと
公生まれて十年にして先君四方に宦学す太夫人親ら之に授くるに書を以てす太夫人嘗て東漢の史を読みて范滂伝に至り慨然として太息す某若し滂と為らば夫人も亦た之を許すや否や汝能く滂と為らば吾かえりて滂の母と為る能わざらんや母覚悟
関連する章句
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葉隠・聞書第一何某(なにがし)申し候は、「しおがれ浪人などと云うは、難儀千万(なんぎせんばん)この上なき様に皆人思うて、その期(ご)には殊(こと)の外(ほか)しおがれ草臥(くたび)るる事なり。浪人して後(のち)は左程(さほど)にはなきものなり。今一度(いまいちど)浪人仕(つかまつ)りたし。」と云う。もっともの事なり。死の道も、平生(へいぜい)に死習(しになら)うては、心安(こころやす)く死ぬべき事なり。奉公人の打留(うちどめ)は浪人切腹(せっぷく)に極(きわ)まりたると、兼ねて覚悟すべきなり。災難は前方(ぜんぽう)了簡(りょうけん)したる程には無きものなるを、先を量(はか)つて苦しむは愚かなる事なり。
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葉隠・聞書第一古人(こじん)の覚悟は深き事なり。十三以上六十以下出陣と云う事あり。それ故に、古老(ころう)は年をかくすといえり。
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葉隠・聞書第一打返しの仕様(しよう)は、踏懸けて切り殺さるるまでなり。これにて恥(はじ)にならぬなり。仕果(しは)たすべしと思ふゆゑ、間(ま)に合はず。向(むこう)は大勢(おおぜい)などと云ひて時を移し、しまり止(どめ)になる相談に極(きわ)まるなり。相手何千人もあれ、片端(かたはし)より撫切(なでぎ)りと思ひ定めて、立ち向ふまでにて成就(じょうじゅ)なり。多分(たぶん)仕(し)済ますものなり。又(また)浅野殿(あさのどの)浪人(ろうにん)夜討(ようち)も、泉岳寺(せんがくじ)にて腹切らぬが落度(おちど)なり。又主(しゅ)を討たせて、敵(かたき)を討つ事延び延びなり。若(も)し、その内に吉良殿(きらどの)病死の時は残念千万なり。上方衆(かみがたしゅう)は智慧(ちえ)かしこきゆゑ、褒めらるる仕様は上手(じょうず)なれども、長崎喧嘩(ながさきけんか)の様に無分別(むふんべつ)にする事はならぬなり。又曾我殿(そがどの)夜討も殊(こと)の外(ほか)の延引(えんいん)。幕(まく)の紋(もん)見物(けんぶつ)の時、祐成(すけなり)図(ず)をはづしたり。不運の事なり。五郎(ごろう)申し様(よう)見事なり。総(そう)じてかやうの批判(ひはん)はせぬものなれども、これも武道(ぶどう)の吟味(ぎんみ)なれば申すなり。前方(ぜんぽう)に吟味して置かねば、行(ゆ)き当りて分別(ふんべつ)出来(でき)合はぬゆゑ、おおかた恥になり候。話を聞き覚え、物の本を見るも、かねての覚悟のためなり。就中(なかんずく)、武道は今日の事も知らずと思ひて、日々夜々(ひびよよ)に箇条(かじょう)を立てて吟味すべき事なり。時の行掛(ゆきがか)りにて勝負はあるべし。恥をかかぬ仕様は別(べつ)なり。死ぬまでなり。これには智慧も業(わざ)も入らぬなり。死ぬまでといふは勝負を考へず、無二無三(むにむざん)に死狂(しにぐる)ひするばかりなり。これにて夢(ゆめ)覚むるなり。
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葉隠・聞書第一途中にて俄雨(にわかあめ)にあいて、濡れじとて道を急ぎ走り、軒下(のきした)などを通りても、濡るる濡るる事は替わらざるなり。初めより思いはまりて濡るる濡るる時、心に苦しみなく濡るる濡るる事は同じ。これ万(よろ)づにわたる心得なり。
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論語・憲問篇子曰く、『士にして居を懐(おも)えば、以て士と為すに足らず。』
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説苑・立節越甲斉に至る。雍門子狄之に死せんことを請う。斉王曰わく、「鼓鐸の声未だ聞かず、矢石未だ交えず、長兵未だ接せず、子何ぞ死を務むるや。人臣為るの礼か」と。雍門子狄対えて曰わく、「臣之を聞く、昔者王囿に田す。左轂鳴りて、車右之に死せんことを請う。而して王曰わく、『子何為れぞ死せんとするや』と。車右対えて曰わく、『其の吾が君に鳴りしが為なり』と。王曰わく、『左轂の鳴るは工師の罪なり。子何の事か之有らんや』と。車右曰わく、『臣工師の乗るを見ずして、其の吾が君に鳴るを見るなり』と。遂に頸を刎ねて死す。之有るを知るか」と。斉王曰わく、「之有り」と。雍門子狄曰わく、「今越甲至る、其の吾が君に鳴るや、豈に左轂の下ならんや。車右左轂を以て死す可くして、臣独り越甲を以て死す可からざらんや」と。遂に頸を刎ねて死す。是の日越人甲を引きて七十里を退きて曰わく、「斉王臣有り、鈞しく雍門子狄の如くんば、越の社稷をして血食せざらしめんと擬す」と。遂に甲を引きて帰る。斉王雍門子狄を葬るに上卿の礼を以てす。