宋名臣言行録 / 後集巻九・曾鞏
初為太平州司戸守張伯玊前輩人也歐陽荆公諸名士共稱子固文章伯玊殊不顧間語子固吾方作六經閣其為之記子固凡謄藁六七終不當伯玉之意則謂子固曰吾自為之其書於紙曰六經閣者諸子百家皆在焉不書尊經也(云云)子固始大畏服益自勵於學矣
新字:初為太平州司戸守張伯玊前輩人也欧陽荆公諸名士共称子固文章伯玊殊不顧間語子固吾方作六経閣其為之記子固凡謄藁六七終不当伯玉之意則謂子固曰吾自為之其書於紙曰六経閣者諸子百家皆在焉不書尊経也(云云)子固始大畏服益自勵於学矣
書き下し
初め太平州の司戸と爲る。守張伯玉は前輩の人なり。歐陽・荊公諸名士共に子固の文章を稱す。伯玉殊に顧みず。間に子固に語る、吾方に六經閣を作らんとす。其れ之が記を爲せと。子固凡そ稿を謄すること六七、終に伯玉の意に當たらず。則ち子固に謂いて曰く、吾自ら之を爲さんと。其れ紙に書して曰く、六經閣とは諸子百家皆焉に在るなり。經を尊ぶを書かざるなりと云云。子固始めて大いに畏服し、益ミ自ら學に勵む。
現代語訳
はじめ太平州の司戸となった。長官の張伯玉は先輩の人である。欧陽脩・王安石ら名士たちがそろって曾鞏の文章を称えていた。張伯玉はまるで気に留めなかった。あるとき曾鞏に語った。「私はいま六経閣を作ろうとしている。ひとつその記を書いてくれ」。曾鞏は草稿を書き直すこと六度七度に及んだが、ついに張伯玉の意にかなわなかった。そこで曾鞏に言った。「私が自分でやろう」。その紙に書いて言った。「六経閣とは、諸子百家もみなここにある、ということである。経を尊ぶとは書かない」。曾鞏ははじめて大いに恐れ入り、いよいよ自ら学に励んだ。
解説
当代の名士たちが称えた文章家が、六度七度書き直して通らなかった。そして示された答えが一行でした。**六経閣とは、諸子百家もみなここにある、ということである。経を尊ぶとは書かない。**六経閣という名だから経を尊ぶ、と書けば、名前をなぞっただけになります。本当に言うべきなのは、そこに何が置かれるかだった。**曾鞏ははじめて大いに恐れ入り、いよいよ自ら学に励んだ。**評判を背負っていた人が、この一行で学び直しています。
この章句が説くこと
欧陽荊公諸名士共に子固の文章を称す伯玉殊に顧みず子固凡そ稿を謄すること六七終に伯玉の意に当たらず六経閣とは諸子百家皆焉に在るなり経を尊ぶを書かざるなり子固始めて大いに畏服し益ミ自ら学に勵む文章格
関連する章句
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『宋名臣言行録』後集巻九・曾鞏天子公の賢を察し公を用いんと欲す。一日内より手詔を中書門下に出だして曰く、曾鞏は史學を以て稱せらる。宜しく五朝の史事を典るべしと。遂に公を以て脩撰と爲す。近世國史を修むるは必ず衆く文學の士を選び大臣を以て監總す。未だ五朝の大典を獨り一人に付する公の如き者有らず。公夙夜討論し未だ稿を屬するに及ばず、㑹ミ官名を正して中書舍人に擢んでらる。入謝を俟たず諭して職に就かしむ。時に三省より百執事に至るまで選授一新す。除吏日に數十人に至る。人に其の職事を舉げて以て戒め、辭は約にして義盡く。論者は三代の風有りと謂う。上も亦た數ミ其の典雅を稱す。
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『宋名臣言行録』後集巻九・曾鞏中間外に從いて徙り、世頗る偃蹇不偶と謂う。一時の後生の輩蜂のごとく出づるも、先生泊如たり。晩に朝廷に還り、天下其の學を用いんことを望む。而して新官制に屬し、遂に書命を掌る。是に於いて百官を更置す。舊舍人の在る者無し。已に試みて即ち院に入る。方に除目の填委するに、紙を占めて肆書す。初め經意せざるが若し。午漏盡きて草を院吏に授け、馬に上りて去る。凡そ除する郎・御史數十人、法意に本づき職守に原ねて之が訓敕を爲す所以の者は人人同じからず。咸ミ新趣有りて衍裕雅重、自ら一家を成す。余其の時尚書郎と爲り、制を吏部に付するを掌る。一日盡く觀るを得て、始めて先生の學は老ゆと雖も衰えず、而して大手筆は自ら人有るを知るなり。嗚呼、先生の用いらるるは未だ其の學を極めず。已んぬるかな。要するに名は天壌と相い弊きて誣う可からざるなり。
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『宋名臣言行録』後集巻九・曾鞏後に易占信州の縣宰たるを以て□に坐して英州に編管せらる。亡匿して曾公の別墅に在り。赦に會いて自ら出づ。子固冤を訟うるも再び劾せられ、復た英州に往きて因りて死す。子固時に喪に奔らず、鄉議の貶する所と爲る。介甫爲に辨曾子を作りて以て之を解く。子固及第すれば鄉人感聖恩道場を作る。以て害を去ると爲すなり。子固好んで漕の勢いに依りて以て州を陵ぎ、州に依りて以て縣を陵ぎ、縣に依りて以て民を陵ぐ。
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『宋名臣言行録』後集巻九・曾鞏中書舍人王震公の文に序して曰く、先生文章を以て天下に名あること久し。異時齒髮壯んに志氣鋭く、其の文章の標鷙奔放、雄渾瓌偉なること、三軍の朝氣、猛獸の抉怒、江湖の波濤、烟雲の姿狀の若し。一に何ぞ竒なるや。是の時に方り、先生の自負は要するに劉向に似んとし、韓愈の何如たるを知らざるのみ。
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『宋名臣言行録』後集巻九・曾鞏初めて神宗に見ゆ。上問いて曰く、卿と王安石とは布衣の舊なり。安石は何如と。對えて曰く、安石の文學行義は揚雄に減ぜず。然れども吝なり。所以に古人に及ばずと。上曰く、安石は富貴を輕んず。吝に非ざるなりと。對えて曰く、此の謂いに非ず。安石は有爲に勇にして改過に吝なりと。上之に頷く。
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