宋名臣言行録 / 前集巻九・尹洙
天聖明道中錢文僖自樞宻留守西都謝希深爲通判歐陽永叔爲推官尹師魯爲掌書記梅聖俞爲主簿皆天下之士錢相因府第起䨇桂樓西城建臨園驛命永叔師魯作記永叔文先成凡千餘言師魯曰洙只用五百字可記文成永叔服其簡古永叔自此始爲古文
新字:天聖明道中銭文僖自枢宻留守西都謝希深為通判欧陽永叔為推官尹師魯為掌書記梅聖俞為主簿皆天下之士銭相因府第起䨇桂楼西城建臨園駅命永叔師魯作記永叔文先成凡千余言師魯曰洙只用五百字可記文成永叔服其簡古永叔自此始為古文
書き下し
天聖・明道中、錢文僖、樞宻より西都に留守す。謝希深、通判と爲る。歐陽永叔、推官と爲る。尹師魯、掌書記と爲る。梅聖俞、主簿と爲る。皆な天下の士なり。錢相、府第に因りて䨇桂樓を起こし、西城に臨園驛を建つ。永叔・師魯に命じて記を作らしむ。永叔の文、先ず成る。凡そ千餘言。師魯曰く、洙は只だ五百字を用いて記す可しと。文成る。永叔、其の簡古なるに服す。永叔、此れより始めて古文を爲す。
現代語訳
天聖・明道の間、銭惟演が枢密院から西都の留守となった。謝絳が通判となった。欧陽脩が推官となった。尹洙が掌書記となった。梅堯臣が主簿となった。みな天下の士であった。銭惟演は役所の建物に双桂楼を建て、西の城に臨園駅を作った。欧陽脩と尹洙に命じて記を書かせた。欧陽脩の文が先に出来た。およそ千余言であった。尹洙は言った。「私なら五百字だけで記せる」。文が出来た。欧陽脩はその簡潔で古雅なのに感服した。欧陽脩はここからはじめて古文を書くようになった。
解説
同じ題で、二人が記を書いた条です。**片方は千余言、もう片方は「私なら五百字だけで記せる」。**そして実際に書いて見せました。**欧陽脩はその簡潔で古雅なのに感服した。**この一件が転機になっています。**欧陽脩はここからはじめて古文を書くようになった。**議論でも説得でもなく、同じ題で半分の字数のものを出しただけでした。
この章句が説くこと
永叔の文先ず成る凡そ千余言洙は只だ五百字を用いて記す可し永叔其の簡古なるに服す永叔此れより始めて古文を為す簡潔実演転機
関連する章句
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『宋名臣言行録』前集巻九・尹洙本朝の古文、栁開仲塗・穆修伯長、首として之が唱を爲す。師魯兄弟、其の後を繼ぐ。文忠公、蚤に偶儷の文に工なり。河南に宦するに及び、始めて師魯を得て、乃ち韓退之の文を出だして之を學ぶ。葢し公と師魯と、文に於て同じからずと雖も、公、古文を爲すは則ち師魯の後に居るなり。五代史の如きは、公嘗て師魯と分撰を約す。其の後、師魯死して子無し。今、歐陽公の五代史、之を學官に頒ちて世に盛行す。内に果たして師魯の文有るか。抑々歐陽公自ら之を爲れるか。歐公、師魯の墓を誌して其の文を論じて曰く、簡にして法有りと。且つ人に謂いて曰く、孔子の六經の中に在りて、惟だ春秋のみ當たる可しと。則ち歐公の師魯に於けるや薄からず。崇寧の間、神宗正史を改修す。歐公の傳に乃ち云う、同時に尹洙なる者有り。亦た古文を爲す。然れども洙の才は以て修を望むに足らずと。葢し史官、皆な晚學の小生にして、前軰の文章の淵源、自ら次第有るを知らざるなり。
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『宋名臣言行録』前集巻九・尹洙文章、唐の衰えしより日々に淺俗に淪み、寖く以て大いに敝る。本朝、栁仲塗、始めて古道を以て之を發明す。後、卒に大いに振るう能わず。天聖の初め、公、獨り穆叅軍伯長と、時の尚ぶ所を矯め、力めて古文を以て主と爲す。次いで歐陽永叔の雄詞を以て之を鼓動するを得たり。是に於て後學大いに悟り、文風丕く變ず。
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修權に貢舉を知す。是の時進士文を爲すに詭異を以て相い髙しとし、太學體と號す。文體大いに壞る。公之を患え、取る所は率ね詞義の古に近きを以て貴しと爲す。險怪を以て名を知らるる者に比しては、黜け去ること殆ど盡く。榜出でて怨議紛然たり。之を久しくして乃ち服す。然れども文章是れより變じて古に復す。
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『宋名臣言行録』後集巻八・吕公著歐陽脩翰林と爲り、公の文學行誼は宜しく左右に在るべしと薦め、公を稱して清静寡欲、古の君子の風有りと。脩の北に使いするに及び、中に中國の德行文章の士を動問さる。脩公及び王荊公を以て對う。
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修蘇内翰軾、公の文に序して曰く、漢より以來、道術の孔氏より出でずして天下を亂す者多し。晉は老莊を以て敗れ、梁は佛を以て亡ぶ。或いは之を正す莫きこと五百餘年。而る後に韓愈を得たり。學ぶ者以て孟氏に配す。蓋し庶幾からん。愈の後三百有餘年にして、而る後に歐陽子を得たり。其の學は韓愈・孟子を推して以て孔氏に達す。其の言は簡にして明、信にして通ず。物を引き類を連ね、之を至理に折して以て人心を服す。故に天下翕然として之を師尊して曰く、歐陽子は今の韓愈なりと。宋興りて七十餘年、民は兵を知らず。富ましめて之を教う。天聖・景祐に至りて極まれり。而れども斯の人は終に古に愧ずる有り。士も亦た陋に因り舊を守り、論は卑くして氣は弱し。歐陽氏一たび出でしより、天下爭いて自ら濯磨し、經に通じ古を學ぶを以て髙しと爲し、時を救い道を行うを以て賢と爲し、顔を犯し諫を納るるを以て忠と爲す。長育成就して嘉祐の末に至り、多士を號稱す。歐陽子の功多しと爲すと。
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『宋名臣言行録』後集巻二・歐陽修公至和の初め、流内銓を判す。小人、公の且に大いに用いられんとするを恐れ、僞りて公の奏を爲りて宦官を澄汰せんことを乞う。宦官之を聞きて果たして怒り、陰かに事を以て公に中つ。遂に公を出して同州を知らしむ。而して言う者の多くは公に罪無しと謂う。上も亦た悟り、留めて唐書を刊修せしむ。俄かに翰林に入りて學士と爲る。滁州の貶より是に至るまで十二年なり。上臨御既に久しく、遍く天下の士を閲するも、羣臣に未だ大いに上意に稱う者有らず。上、富・韓の賢を思い、復た召して二府に寘く。時に慶暦の舊人は惟だ二公と公と三人のみ、皆朝廷に在り。士大夫、上に致治の意有るを知り、翕然として相い慶す。