宋名臣言行録 / 後集巻九・曾鞏
後易占以信州縣宰坐□英州編管亡匿於曾公别墅㑹赦自出子固訟寃再劾復往英州因死焉子固時不奔䘮為鄉議所貶介甫為作辨曾子以解之子固及第鄉人作感聖恩道場以為去害也子固好依漕勢以陵州依州以陵縣依縣以陵民
新字:後易占以信州県宰坐□英州編管亡匿於曽公別墅会赦自出子固訟冤再劾復往英州因死焉子固時不奔喪為鄉議所貶介甫為作弁曽子以解之子固及第鄉人作感聖恩道場以為去害也子固好依漕勢以陵州依州以陵県依県以陵民
書き下し
後に易占信州の縣宰たるを以て□に坐して英州に編管せらる。亡匿して曾公の別墅に在り。赦に會いて自ら出づ。子固冤を訟うるも再び劾せられ、復た英州に往きて因りて死す。子固時に喪に奔らず、鄉議の貶する所と爲る。介甫爲に辨曾子を作りて以て之を解く。子固及第すれば鄉人感聖恩道場を作る。以て害を去ると爲すなり。子固好んで漕の勢いに依りて以て州を陵ぎ、州に依りて以て縣を陵ぎ、縣に依りて以て民を陵ぐ。
現代語訳
後に曾易占は信州の県令であったときに〔一字を欠く〕の罪に問われ、英州に流されて監視下に置かれた。逃れ隠れて曾公亮の別荘にいた。恩赦に会って自ら出た。曾鞏は冤罪を訴えたが、再び弾劾され、あらためて英州に赴いて、そこで死んだ。曾鞏はそのとき喪に駆けつけず、郷里の議論にそしられた。王安石はそのために「辨曾子」を書いて弁護した。曾鞏が及第すると、郷里の人は「感聖恩道場」を営んだ。害が去ったとしたのである。曾鞏は好んで漕運の勢いに頼って州を圧し、州に頼って県を圧し、県に頼って民を圧した。
解説
前の段の続きで、かなり厳しい伝聞です。ただし、この書はここに編者の注を付けています。父が南都で亡くなったとき、杜衍が喪を取り仕切っており、文集にはそのときの礼状が残っている。**喪に駆けつけなかったというのは、司馬光が伝え聞いた誤りである。**同じ書のなかに、悪評とその訂正が並んで置かれている。**郷里の人は「感聖恩道場」を営んだ。**噂は形になって残り、後から消せません。だから注を付ける以外にない。
この章句が説くこと
後に易占信州の県宰たるを以て坐して英州に編管せらる子固冤を訟うるも再び劾せられ復た英州に往きて因りて死す子固時に喪に奔らず鄉議の貶する所と為る介甫為に弁曽子を作りて以て之を解く悪評伝聞
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