宋名臣言行録 / 後集巻七・司馬光
蘇内翰軾作公神道碑銘曰於皇上帝子惠我民孰堪顧天惟聖與仁聖子受命如堯之初神母詔之匪亟匪徐聖神無心孰左右之民自擇相我興授之其相維何太師温公公來自西一馬二童萬人環之如渇赴泉
新字:蘇内翰軾作公神道碑銘曰於皇上帝子恵我民孰堪顧天惟聖与仁聖子受命如堯之初神母詔之匪亟匪徐聖神無心孰左右之民自択相我興授之其相維何太師温公公来自西一馬二童万人環之如渇赴泉
書き下し
蘇内翰軾公の神道碑銘を作りて曰く、於皇なる上帝、子めに我が民を惠む。孰か天に顧みらるるに堪えん。惟だ聖と仁と。聖子命を受くること堯の初めの如し。神母之に詔ぐ。亟ならず徐ならず。聖神は無心。孰か之を左右せん。民自ら相を擇び、我興りて之を授く。其の相は維れ何ぞ。太師温公。公は西より來たる。一馬二童。萬人之を環る。渇して泉に赴くが如し。
現代語訳
蘇軾が司馬光の神道碑銘を作って言う。「ああ偉大な上帝は、ねんごろにわが民を恵まれる。誰が天に顧みられるに堪えようか。ただ聖と仁とだけである。聖なる子が命を受けたのは、堯のはじめのようであった。神のごとき母がこれに告げた。急ぐでもなく、遅れるでもなく。聖なる神には私心がない。誰がこれを左右できよう。民が自ら宰相を選び、われは立ってこれを授けた。その宰相とは誰か。太師の温公である。公は西からやって来た。馬一頭に童が二人。万人がこれを取り囲んだ。渇いた者が泉へ走るようであった」。
解説
碑銘の前半です。天と天子から説き起こして、最後に一つの情景で落としました。**公は西からやって来た。馬一頭に童が二人。**宰相を迎える行列ではありません。洛陽から出てきた老人の、そのままの姿です。そこに続く一行が対比になっています。**万人がこれを取り囲んだ。渇いた者が泉へ走るようであった。**こちらの側には何の飾りもない。集まったほうの必死さだけが書かれています。この落差が、この銘の眼目です。
この章句が説くこと
蘇内翰軾公の神道碑銘を作る民自ら相を択び我興りて之を授く其の相は維れ何ぞ太師温公公は西より来たる一馬二童万人之を環る渇して泉に赴くが如し銘来任
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