宋名臣言行録 / 後集巻七・司馬光
於是四方吏民言新法不便者數千人公方草具所當行者而太后已有㫖散遣修京城邏卒罷减皇城内覘者止御前工作出近侍之無狀者三千餘人戒飭中外無敢苛刻暴歛廢導洛司物貨場及民間戸馬寛保馬限皆從中出大臣不與公上疏謝當今急務陛下已畧行之矣小臣稽慢罪當萬死
新字:於是四方吏民言新法不便者数千人公方草具所当行者而太后已有旨散遣修京城邏卒罷减皇城内覘者止御前工作出近侍之無状者三千余人戒飭中外無敢苛刻暴歛廃導洛司物貨場及民間戸馬寛保馬限皆従中出大臣不与公上疏謝当今急務陛下已畧行之矣小臣稽慢罪当万死
書き下し
是に於いて四方の吏民の新法の不便を言う者數千人。公方に當に行うべき所の者を草具す。而して太后已に㫖有り、京城の邏卒を散遣し、皇城内の覘者を罷減し、御前の工作を止め、近侍の無狀なる者三千餘人を出し、中外を戒飭して敢えて苛刻暴斂する無からしめ、導洛司・物貨場及び民間の戸馬を廢し、保馬の限を寛にす。皆中より出でて大臣與らず。公上疏して謝す、當今の急務、陛下已に略ミ之を行えり。小臣の稽慢、罪當に萬死すべしと。
現代語訳
そこで四方の役人や民で、新法の不都合を訴える者が数千人に及んだ。司馬光はちょうど、行うべきことの草案を用意していた。ところが太后にはすでにお指図があって、都の巡邏の兵を解散させ、皇城内の内偵を減らし、御前の細工仕事を止め、近侍で行状のよくない者三千余人を出し、内外を戒めて過酷な取り立てをしないようにさせ、導洛司・物貨場および民間の戸馬を廃し、保馬の期限を緩めた。どれも宮中から出たもので、大臣はあずかっていなかった。司馬光は上疏して礼を述べた。「いまの急務は、陛下がすでにおおむね実行されております。小臣が遅れましたことは、罪は万死に値します」。
解説
言路を開いた結果が、数千人でした。そして案を書いている最中に、上のほうが先に動いています。**司馬光はちょうど、行うべきことの草案を用意していた。ところが太后にはすでにお指図があって。**並んだのは監視と取り立てに関わるものばかりです。巡邏、内偵、行状の悪い近侍。**どれも宮中から出たもので、大臣はあずかっていなかった。**先を越された側の言葉が率直でした。**いまの急務は、陛下がすでにおおむね実行されております。小臣が遅れましたことは、罪は万死に値します。**
この章句が説くこと
是に於いて四方の吏民の新法の不便を言う者数千人公方に当に行うべき所の者を草具す而して太后已に旨有り京城の邏卒を散遣し皇城内の覘者を罷減す当今の急務陛下已に略ミ之を行えり小臣の稽慢罪当に万死すべし迅速内旨
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