宋名臣言行録 / 後集巻七・司馬光
邉吏上言西戎部將嵬名山欲以横山之衆取諒祚以降詔邉臣招納其衆公上疏極論以為名山之衆未必能制諒祚幸而勝之滅一諒祚生一諒祚何利之有若其不勝必引衆歸我不知何以待之臣恐朝廷不獨失信於諒祚又將失信於名山矣若名山餘衆尚多還北不可入南不受必將突㩀邉城以救其命陛下獨不見侯景之事乎上不聽遣將种諤發兵迎之取綏州費六十萬西方用兵盖自是始
新字:邉吏上言西戎部将嵬名山欲以横山之衆取諒祚以降詔邉臣招納其衆公上疏極論以為名山之衆未必能制諒祚幸而勝之滅一諒祚生一諒祚何利之有若其不勝必引衆帰我不知何以待之臣恐朝廷不独失信於諒祚又将失信於名山矣若名山余衆尚多還北不可入南不受必将突㩀邉城以救其命陛下独不見侯景之事乎上不聴遣将种諤発兵迎之取綏州費六十万西方用兵盖自是始
書き下し
邊吏上言す、西戎の部將嵬名山、横山の衆を以て諒祚を取りて降らんと欲すと。詔して邊臣に其の衆を招納せしむ。公上疏して極論して以爲えらく、名山の衆は未だ必ずしも諒祚を制する能わず。幸いにして之に勝つも、一諒祚を滅ぼして一諒祚を生ず。何の利か之れ有らん。若し其れ勝たずんば、必ず衆を引きて我に歸せん。知らず、何を以て之を待たん。臣恐る、朝廷獨り諒祚に信を失うのみならず、又た將に名山に信を失わんとするを。若し名山の餘衆尚お多く、北に還る可からず南に入りて受けられずんば、必ず將に突きて邊城に據りて以て其の命を救わんとす。陛下獨り侯景の事を見ざるかと。上聽かず。將种諤を遣わして兵を發して之を迎えしめ、綏州を取りて六十萬を費やす。西方の用兵は蓋し是より始まる。
現代語訳
国境の役人が上申した。西戎の部将である嵬名山が、横山の兵をもって諒祚を捕らえて降ろうとしている、と。詔して国境の臣にその一団を受け入れさせようとした。司馬光は上疏して突き詰めて論じ、こう考えた。「名山の一団は、必ずしも諒祚を制することができるとは限りません。幸いにこれに勝ったとしても、一人の諒祚を滅ぼして、もう一人の諒祚を生むだけです。何の利益がありましょうか。もし勝てなければ、必ず一団を引き連れて我が国に帰属してきます。それをどう遇するのか分かりません。臣は恐れます、朝廷が諒祚に信を失うだけでなく、さらに名山にも信を失うことになるのを。もし名山の残った者たちがなお多く、北へは戻れず、南へ入っても受け入れられなければ、必ず突入して国境の城に拠って、自分たちの命を救おうとするでしょう。陛下は侯景の一件をご存じないのですか」。天子は聴かなかった。将の种諤を遣わして兵を出して迎えさせ、綏州を取って六十万を費やした。西方での用兵は、思うにここから始まった。
解説
この章句が説くこと
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『韓非子』外儲說左下第三十三魯の哀公孔子に問ひて曰く、「吾聞く古者夔一足有りと、其れ果して信に一足有るか。」孔子対へて曰く、「不なり、夔は一足に非ざるなり。夔は忿戾悪心にして、人多く説喜せざるなり。然りと雖も、其の以て人の害を免るるを得る所以の者は、其の信を以てなり。人皆曰く、独り此の一あれば、足れり、と。夔は一足に非ざるなり、一にして足るなり。」哀公曰く、「審かに而り、固より足れり。」一に曰く、哀公孔子に問ひて曰く、「吾聞く夔は一足なりと、信か。」曰く、「夔は、人なり、何の故に一足ならん。彼其れ他に異なること無し、而して独り声に通ず。堯曰く、夔は一にして足れり、と。楽正と為さしむ。故に君子曰く、夔は一有り、足れり、と。一足に非ざるなり。」三。文王崇を伐ち、鳳黄の虚に至る、韈の係解く、因りて自ら結ぶ。太公望曰く、「何為れぞや。」王曰く、「上は、君と処るもの皆其の師なり。中は、皆其の友なり。下は、尽く其の使なり。今皆先君の臣なり、故に使ふべきもの無きなり。」一に曰く、晋の文公楚と戦ひ、黄鳳の陵に至る、履の係解く、因りて自ら之を結ぶ。左右曰く、「以て人を使ふべからざるか。」公曰く、「吾聞く、上は、君の与に居る所、皆其の畏るる所なり。中は、君の与に居る所、皆其の愛する所なり。下は、君の与に居る所、皆其の侮る所なり。寡人不肖なりと雖も、先君の人皆在り、是を以て之を難るなり。」季孫士を好み、終身荘にして、居処衣服常に朝廷の如し。而して季孫適ま懈り、過失有り、而して長く為すこと能はざるなり。故に客以て己を厭易すと為し、相与に之を怨み、遂に季孫を殺す。故に君子は泰を去り甚を去る。一に曰く、南宮敬子顔涿聚に問ひて曰く、「季孫孔子の徒を養ひ、朝服して与に坐する所の者十を以て数ふるに賊に遇ふは、何ぞや。」
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『五常訓』巻之五・信一朱子曰、人の誠ならざる所、多くは言の上にありと。信をまもるに、言語の上に心を用ひて、実を以てすべし。一朋友に交るには、もとより愛敬を用ふべし。然れども、信なければ、愛敬も偽より出て、誠の愛敬にあらず。顔色をやはらげ、容貌をうやうやしくするも、偽りかざれるは、愛敬とすべからず。
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『五常訓』巻之一・総論又孟子はじめて仁義礼智の四徳をつらねて説き給へり。是又仁義の外、礼智あるにあらず。礼は仁よりいで、智は義の内にあり。朱子の、礼は仁の著るるなり。智は義の蔵るるなりといへるが如し。仁義をわかちて四徳を説くは、陰陽をわかてば、春夏秋冬の四時となるに本づけり。前漢の董仲舒曰く。仁義礼智信五常の道は、王者の当に修飾すべき所なりといへり。是四徳に信を加へて、五常と説ける始なり。四徳の外、別に信あるにあらず。四徳のまことありて偽無きは、即信なり。信なければ仁義礼智にあらず。たとへば四時の内に土用ありて、木火金水の気行はるるが如し。木火金水も、土なければ生ぜず。是董仲舒のはじめて説き出せるにもあらず。上代よりすでに此説あればなり。
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『五常訓』巻之五・信一子曰く、人にして信無くんば其の可なるを知らざるなり。人の心信実なるは、万事の基にして、人にまじはるの道なり。若信なければ、万事すべて、偽なれば、人にまじはりて、如何ぞ善なるべき。たとへば大車の荷車に輗なければ、牛の首に車をかくる事ならず。小車の乗車に軏なければ、車を馬にかくる事ならず。車と牛馬とは別の物なれど、輗と軏とあれば、是を以て牛馬に車をかけて引かしむべし。若此ものなくんば、何を以てか車をやるべきや。人にまじはるに信ならざるも、亦かくの如し。人と我とは、二物なり。信実を以て交はれば、互に感通して、道行はる。若信なくして人と交はらば、我人にまことなく、人我を信ぜず。彼と我と感通せず。何を以てか道行はれんや。
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『十善法語』巻第十一・不邪見戒之中総シテ心ノアル処ハ形ノアル処。形ノ生スル処ニ其心生スルシヤ。此女人自ノ眉目鼻口ノソナヘニ自執着セシ故。一息截断ノ時。其着セル心還テ己カ面上ニ生シ。虫ト為テ暫モ離レ得ヌシヤ。摩訶羅ト云ハ梵語デ。此ニハ老ナリ愚ナリト翻スル。愚人ノ年ヲ重ネタル者ノ名シヤ。看ヨ。正法ハ智愚ヲ択ハヌ。唯信アル処ニ此縁起実相ハ顕ルルシヤ。今日ノ者モ純一ニ心ヲ寄セハ。仮令摩訶羅ナリトモ。甚深ノ法ニ通達スヘキシヤ。
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