宋名臣言行録 / 後集巻七・司馬光
王廣淵除集賢院公言廣淵姦邪不可近昔漢景帝為太子召上左右飲衛綰獨稱疾不行及即位待綰有加周世宗鎮澶淵張美掌州之錢穀世宗私有求假美悉力應之及即位薄其為人不用今廣淵當仁宗之世私自結於陛下豈忠臣哉願黜之以厲天下
新字:王広淵除集賢院公言広淵姦邪不可近昔漢景帝為太子召上左右飲衛綰独称疾不行及即位待綰有加周世宗鎮澶淵張美掌州之銭穀世宗私有求仮美悉力応之及即位薄其為人不用今広淵当仁宗之世私自結於陛下豈忠臣哉願黜之以厲天下
書き下し
王廣淵集賢院を除せらる。公言う、廣淵は姦邪にして近づく可からず。昔漢の景帝太子爲りしとき、上の左右を召して飲ましむ。衛綰獨り疾と稱して行かず。即位するに及びて綰を待すること加うる有り。周の世宗澶淵に鎮せしとき、張美州の錢穀を掌る。世宗私に求め假るに、美力を悉くして之に應ず。即位するに及びて其の人と爲りを薄しとして用いず。今廣淵は仁宗の世に當たりて私かに自ら陛下に結ぶ。豈に忠臣ならんや。願わくは之を黜けて以て天下を厲ませと。
現代語訳
王広淵が集賢院に任じられた。司馬光は言った。「広淵はよこしまで、近づけてはなりません。昔、漢の景帝が太子であったとき、天子の側近たちを招いて酒を飲ませた。衛綰ひとりが病と称して行かなかった。即位すると、衛綰を厚く遇した。後周の世宗が澶淵に鎮していたとき、張美が州の銭と穀を管理していた。世宗が私的に融通を求めると、張美は力を尽くしてこれに応じた。即位すると、その人柄を薄いものとして用いなかった。いま広淵は仁宗の御代にあって、ひそかに自分から陛下と結びました。忠臣でありましょうか。どうかこれを退けて、天下を励ましてください」。
解説
先例を二つ、対にして並べています。片方は誘いを断った者、もう片方は融通を利かせた者。そして即位後の扱いが、それぞれ逆になりました。衛綰ひとりが病と称して行かなかった。即位すると、衛綰を厚く遇した。張美は力を尽くしてこれに応じた。即位すると、その人柄を薄いものとして用いなかった。そのうえで、いまの一件を当てはめました。いま広淵は仁宗の御代にあって、ひそかに自分から陛下と結びました。先の代のうちから次の代に賭けていた、と。
この章句が説くこと
広淵は姦邪にして近づく可からず衛綰独り疾と称して行かず即位するに及びて綰を待すること加うる有り美力を悉くして之に応ず即位するに及びて其の人と為りを薄しとして用いず今広淵は仁宗の世に当たりて私かに自ら陛下に結ぶ豈に忠臣ならんや取り入り先例
関連する章句
-
『春秋左氏伝』昭公十三年 奥主有り、外援無し善に下りて齊肅、賄を藏せず、欲に從はず、施舍して倦まず、善を求めて厭かず。是を以って國を有つ、亦た宜ならずや。我が先君文公は、狐季姬の子なり。獻に寵有り。學を好みて貳はず。生まれて十七年、士五人有り。先大夫子餘・子犯有りて、以って腹心と為す。魏犨・賈佗有りて、以って股肱と為す。齊・宋・秦・楚有りて、以って外主と為す。欒・郤・狐・先有りて、以って内主と為す。亡ぐること十九年、志を守ること彌々篤し。惠・懷民を棄て、民從ひて之に與す。獻に異親無く、民に異望無し。天方に晉を相く。將た何を以ってか文に代へん。此の二君は、子干に異なり。共には寵子有り、國には奧主有り。民に施す無く、外に援無し。晉を去れども送らず、楚に歸れども逆へず。何を以ってか國を冀はん」と。晉虒祁を成す。諸侯の朝して歸る者、皆貳心有り。郠を取るが為の故に、晉將に諸侯を以って來り討たんとす。叔向曰く、「諸侯以って威を示さざる可からず」と。乃ち並びに會を徵して吳に告ぐ。
-
『春秋左氏伝』昭公二十六年 王子朝の檄文天周を弔(あはれ)まず、王昏くして若(したが)はず、用って厥の位を愆(うしな)ふ。攜王(けいおう)命を奸(をか)す。諸侯之を替へて、王嗣を建て、用って郟鄏(こうじょく)に遷る。則ち是れ兄弟の能く力を王室に用ふるなり。惠王に至り、天周を靖んぜず、頹に禍心を生じ、叔帶に施(およ)ぶ。惠・襄難を辟け、王都を越え去る。則ち晉・鄭有りて、咸(みな)不端を黜け、以って王家を綏定す。則ち是れ兄弟の能く先王の命に率ふなり。定王の六年に在りて、秦人妖を降して曰く、『周其れ髭王有らん。亦た克く其の職を脩め、諸侯服享し、二世職を共にせん。王室其れ王位を間(うかが)ふもの有らん。諸侯圖らずして、其の亂災を受けん』と。靈王に至り、生まれながらにして髭有り。王甚だ神聖にして、諸侯に惡まるること無し。靈王・景王、克く其の世を終ふ。今王室亂る。單旗・劉狄、天下を剝亂し、壹に若はざるを行ひ、謂ふ、『先王何の常か之れ有らん。唯だ余が心の命ずる所なり。其れ誰か敢へて之を請はん』と。群不弔の人を帥ゐて、以って亂を王室に行ひ、侵欲厭くこと無く、規求度無し。
-
『甲陽軍鑑』品第四十八扨また諸人の批判には、さいげんなき法花坊機にあがらん、又はあぶられんとのさた也、奉行衆も此以前岩村田法華坊主、何にても證拠なきさへ以て御分国をはらはるゝ、まして是は大方の御成敗にては有間敷、いそぎ改め出し、日記に付、言上申べしとて書立を以て申上る、
-
『政談』奉公人年を僞る事当時十四五歳になるものゝいまた小身にて御奉公もせぬうちに死したるか、兼ねて年を偽りて十七満になりたるは其の人の伯父のあるをは差置とていとこちがいなどの二三歳なるを、他苗を搆はす年をます五六歳も偽りて養子に願へば、願ひの通り仰付けらるゝ事なり、然れは其の先祖の御奉公故に跡を立て玉ふにてはなくて、其の小身にて未た御奉公もせぬ十四五歳になるものゝ跡目を立て玉ふやうなり、是れ皆法の立やう悪しき故跡目を立てらるゝ本意を忘れて例にかゝはる故なり、大名には家相続とて年にもかゝはらさる例あれとも、旗本を支配するともから此の例を引かぬは、ひろく例をも考へす、唯我か扱ひ習ひたる仕くせしかけにて申し立つれは何の詮議も無きこと、是亦当時は何もかも願ひと云事はやる故なり、且又次男三男を他苗にても養子にやりたきと人々のぞみをかけて其支配の頭に頼む故、頼れたるか黙しかたくて斯の如く仕なすもあるへし、此等は願ひに搆はす其の支配同苗の親類はなきかと吟味して申し立つへきこと也、畢竟文盲なれは同苗にても苗他にても跡さへ立ては同しこと也と心得る故もあるへし、
-
『重職心得箇条』第四条先格古例に二つあり、家法の例格あり、仕癖の例格あり、先づ今此の事を処するに、斯様斯様あるべしと自案を付け、時宜を考へて然る後例格を検し、今日に引き合わすべし。仕癖の例格にても、其の通りにて能(よ)き事は其の通りにし、時宜に叶はざる事は拘泥すべからず。自案と云ふもの無しに、先づ例格より入るは、当今役人の通病(つうへい)なるべし。
-
『甲陽軍鑑』品第四十七其後仰出しには、彼落合彥助事曲淵に年こそおとりたりとも、武辺の事さのみおとる者にてなし、さるについて逍遥軒にとらせ候所に、曲淵が蔵前にて奉行どもに雑言の事赦免せしめてありとて、いつもさやう有べきと存、事下より上をはからふたる様子言語同断、口惜く思召し候、其上第一に彼彥助をあれほどの臆病者にて有べしとは御存知なし、

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る