宋名臣言行録 / 後集巻七・司馬光
有司奏六月朔日當食公言故事食不滿分或京師不見皆賀臣以為日食四方見京師不見天意人君為隂邪所蔽天下皆知而朝廷獨不知其為災當益甚皆不當賀詔從之後遂以為常
新字:有司奏六月朔日当食公言故事食不満分或京師不見皆賀臣以為日食四方見京師不見天意人君為陰邪所蔽天下皆知而朝廷独不知其為災当益甚皆不当賀詔従之後遂以為常
書き下し
有司奏す、六月朔日當に食すべしと。公言う、故事、食して分を滿たさず、或いは京師に見えざれば皆賀す。臣以爲えらく、日食して四方に見え京師に見えざるは、天意、人君の陰邪に蔽わるるに、天下皆知りて朝廷獨り知らざるなり。其の災たること當に益ミ甚だしかるべし。皆當に賀すべからずと。詔して之に從う。後遂に以て常と爲す。
現代語訳
担当の役所が奏上した。六月一日に日食があるはずです、と。司馬光は言った。「先例では、食が欠ける度合いが満ちない場合、あるいは都で見えない場合は、みな祝いを述べます。臣が思いますに、日食が四方では見えて都で見えないのは、天意としては、君主が陰邪に覆われているのに、天下はみな知っていて朝廷だけが知らない、ということです。その災いとしては、いっそう甚だしいはずです。どちらも祝うべきではありません」。詔してこれに従った。後にこれが常例となった。
解説
都で見えなければ祝う、という慣例を、正反対に読み替えた条です。**日食が四方では見えて都で見えないのは、天意としては、君主が陰邪に覆われているのに、天下はみな知っていて朝廷だけが知らない、ということです。**見えないことを、免れた印ではなく、遮られている印と取った。**その災いとしては、いっそう甚だしいはずです。**中央だけが知らない状態のほうが危ない、という理屈は、天変から離れてもそのまま通ります。
この章句が説くこと
故事食して分を満たさず或いは京師に見えざれば皆賀す日食して四方に見え京師に見えざるは天下皆知りて朝廷独り知らざるなり其の災たること当に益ミ甚だしかるべし皆当に賀すべからず天変解釈
関連する章句
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