宋名臣言行録 / 後集巻七・司馬光
山谷云范純甫言公初宦時年尚少家人毎毎見其卧齋中忽蹶起着公服執手版危坐久率以為常竟莫識其意純甫嘗從容問之答曰吾時忽念天下事夫人以天下安危為念豈可不敬邪
新字:山谷云范純甫言公初宦時年尚少家人毎毎見其臥斎中忽蹶起着公服執手版危坐久率以為常竟莫識其意純甫嘗従容問之答曰吾時忽念天下事夫人以天下安危為念豈可不敬邪
書き下し
山谷云う、范純甫言う、公初め宦する時、年尚お少なし。家人毎ミ其の齋中に臥するを見る。忽ち蹶起して公服を着け手版を執り、危坐すること久しく、率ね以て常と爲す。竟に其の意を識る莫し。純甫嘗て從容として之を問う。答えて曰く、吾時に忽ち天下の事を念う。夫れ人は天下の安危を以て念と爲す。豈に敬せざる可けんやと。
現代語訳
黄庭堅が言う。范純甫が語ったところでは、司馬光がはじめて仕官したころ、年はまだ若かった。家の者はたびたび、彼が書斎で横になっているのを見た。すると突然跳ね起きて、正装を着け笏を手に取り、長いあいだ端座する。それがおおむね常であった。ついにその意図を知る者がなかった。范純甫はかつて折を見てこれを尋ねた。答えて言った。「私はときどき、ふと天下の事を思うのだ。そもそも人が天下の安危を心にかけるのである。どうして敬わずにいられようか」。
解説
誰も見ていない部屋での振る舞いです。しかも動機が、その場に誰かがいるからではありません。私はときどき、ふと天下の事を思うのだ。思った、それだけです。それで寝間着のまま横になっていられなくなり、正装して座り直しました。そもそも人が天下の安危を心にかけるのである。どうして敬わずにいられようか。考える対象に対して、体のほうを合わせている。長く誰にも理由が分かりませんでした。
この章句が説くこと
公初め宦する時年尚お少なし忽ち蹶起して公服を着け手版を執り危坐すること久し竟に其の意を識る莫し吾時に忽ち天下の事を念う豈に敬せざる可けんや敬独居
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