宋名臣言行録 / 後集巻六・王安石
俠徒步赴貶所俠性清儉布衣糲食終其身有應舉不以實年者戒之曰方謀入仕已有欺君之心不可
新字:俠徒歩赴貶所俠性清倹布衣糲食終其身有応舉不以実年者戒之曰方謀入仕已有欺君之心不可
書き下し
俠徒歩にて貶所に赴く。俠の性は清儉、布衣糲食にして其の身を終う。舉に應ずるに實年を以てせざる者有り。之を戒めて曰く、方に仕に入るを謀りて已に君を欺くの心有り。不可なりと。
現代語訳
鄭俠は徒歩で流刑地へ赴いた。鄭俠の性質は清らかで倹しく、粗末な衣と粗い飯で生涯を終えた。科挙に応じるのに、実際の年齢で申告しない者があった。これを戒めて言った。「まさに仕官しようと図りながら、すでに君を欺く心がある。よくないことだ」。
解説
処分を受けたあとの姿が、二行で書かれます。**徒歩で流刑地へ赴いた。****粗末な衣と粗い飯で生涯を終えた。**そして最後まで変わらなかったものが、小さな戒めに出ます。受験年齢の詐称は、当時ありふれた小細工でした。それを一段深いところで捉えています。**まさに仕官しようと図りながら、すでに君を欺く心がある。**入る前から欺いている者が、入った後に欺かないはずがない。この人が一枚の絵に賭けた理由が、ここに繋がります。
この章句が説くこと
俠徒歩にて貶所に赴く俠の性は清倹布衣糲食にして其の身を終う舉に応ずるに実年を以てせざる者有り方に仕に入るを謀りて已に君を欺くの心有り不可なり年齢偽り
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『宋名臣言行録』後集巻六・王安石鄭俠介夫なる者は福州の人なり。公金陵に憂に居る時、嘗て從學す。後に進士に舉げられ、光州司法に調せらる。秩滿ちて京に至る。會ミ公政を秉る。問うに聞く所を以てす。俠因りて具さに青苗・免役・用兵の害を言う。公答えず。又た數ミ書を以て之を論ずるも亦た報ぜられず。
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