宋名臣言行録 / 後集巻六・王安石
既行上問惠卿鄭俠小臣禁中宻事及大臣奏對之言何自聞之惠卿對曰此皆馮京手錄使王安國持示導之使言耳惠卿與京同列議多矛盾又以諂事荆公為安國所疾屢諷其兄不悟故并中之
新字:既行上問恵卿鄭俠小臣禁中宻事及大臣奏対之言何自聞之恵卿対曰此皆馮京手録使王安国持示導之使言耳恵卿与京同列議多矛盾又以諂事荆公為安国所疾屢諷其兄不悟故并中之
書き下し
既に行く。上惠卿に問う、鄭俠は小臣なり。禁中の密事及び大臣の奏對の言を何より之を聞けるやと。惠卿對えて曰く、此れ皆馮京の手錄、王安國をして持ちて之に示し、導きて言わしむるのみと。惠卿は京と同列にして議多く矛盾す。又た諂いて荊公に事うるを以て安國の疾む所と爲り、屢ミ其の兄に諷するも悟らず。故に并せて之に中つ。
現代語訳
すでに出発した。天子は呂恵卿に問うた。「鄭俠は身分の低い臣である。宮中の秘事や、大臣が奏上した際の言葉を、どこから聞いたのか」。呂恵卿は答えて言った。「これはみな馮京が自ら書き写したものを、王安国に持たせて見せ、導いて言わせただけです」。呂恵卿は馮京と同列であって、議論が多く食い違っていた。また、へつらって王安石に仕えていたので王安国に憎まれ、王安国はたびたびその兄に諷したが気づかれなかった。だから、あわせてこの二人に当てたのである。
解説
情報源を問われた場面で、答えた側の動機がその場で解説されます。**呂恵卿は馮京と同列であって、議論が多く食い違っていた。****へつらって王安石に仕えていたので王安国に憎まれ。**どちらも私的な確執を抱えていた相手でした。**だから、あわせてこの二人に当てたのである。**問われたのは出どころです。返ってきたのは、始末したい二人の名前でした。ここから、鄭俠一人の件だったものが広がっていきます。
この章句が説くこと
鄭俠は小臣なり禁中の密事及び大臣の奏対の言を何より之を聞けるや此れ皆馮京の手録王安国をして持ちて之に示し導きて言わしむるのみ恵卿は京と同列にして議多く矛盾す故に并せて之に中つ情報源私怨
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