宋名臣言行録 / 後集巻六・王安石
鄭俠介夫者福州人公居憂金陵時嘗從學後舉進士調光州司法秩滿至京㑹公秉政問以所聞俠因為具言青苗免役用兵之害公不答又數以書論之亦不報
新字:鄭侠介夫者福州人公居憂金陵時嘗従学後舉進士調光州司法秩満至京会公秉政問以所聞侠因為具言青苗免役用兵之害公不答又数以書論之亦不報
書き下し
鄭俠介夫なる者は福州の人なり。公金陵に憂に居る時、嘗て從學す。後に進士に舉げられ、光州司法に調せらる。秩滿ちて京に至る。會ミ公政を秉る。問うに聞く所を以てす。俠因りて具さに青苗・免役・用兵の害を言う。公答えず。又た數ミ書を以て之を論ずるも亦た報ぜられず。
現代語訳
鄭俠、字は介夫は福州の人である。王安石が金陵で喪に服していたとき、かつて教えを受けた。後に進士に挙げられ、光州司法に任じられた。任期が満ちて都に至った。ちょうど王安石が政を執っていた。見聞したことを問われた。鄭俠はそこでこまごまと、青苗・免役・用兵の害を述べた。王安石は答えなかった。またたびたび手紙でこれを論じたが、それにも返事はなかった。
解説
この書で最も長い一条が、ここから始まります。まず関係が示されました。王安石が金陵で喪に服していたとき、かつて教えを受けた。弟子です。そして問われたので答えました。見聞したことを問われた。鄭俠はそこでこまごまと、青苗・免役・用兵の害を述べた。問うたのは向こうからでした。返ってきたのは沈黙です。王安石は答えなかった。またたびたび手紙でこれを論じたが、それにも返事はなかった。この沈黙が、後の一枚の絵に行き着きます。
この章句が説くこと
公金陵に憂に居る時嘗て従学す会ミ公政を秉る問うに聞く所を以てす俠因りて具さに青苗免役用兵の害を言う侠因りて具さに青苗免役用兵の害を言う公答えず又た数ミ書を以て之を論ずるも亦た報ぜられず師弟
関連する章句
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