宋名臣言行録 / 後集巻六・王安石
俠又上書言大臣奏以三路流民皆為南北下各有田名燕子田若北旱則南南荒又北此皆誣罔上聴臣乞勘㑹三路之民自去冬流移至今不已何人是南方有田者他語譏大臣甚衆并詆臺諌皆如芻靈木偶又言禁中被甲登殿等事奏入執政大怒言於上以為謗訕朝政追毁出身以來文字送汀州編管
新字:俠又上書言大臣奏以三路流民皆為南北下各有田名燕子田若北旱則南南荒又北此皆誣罔上聴臣乞勘会三路之民自去冬流移至今不已何人是南方有田者他語譏大臣甚衆并詆台諌皆如芻霊木偶又言禁中被甲登殿等事奏入執政大怒言於上以為謗訕朝政追毁出身以来文字送汀州編管
書き下し
俠又た上書して言う、大臣奏して三路の流民は皆南北の下に各ミ田有り、燕子田と名づく。若し北旱ならば則ち南し、南荒ならば又た北すと以爲す。此れ皆上聽を誣罔するなり。臣は三路の民の去冬より流移して今に至るも已まざるを勘會せんことを乞う。何人か是れ南方に田有る者ぞと。他の語は大臣を譏ること甚だ衆く、并せて臺諫を詆りて皆芻靈木偶の如しと。又た禁中の甲を被て殿に登る等の事を言う。奏入りて執政大いに怒り、上に言いて以て朝政を謗訕すと爲し、出身以來の文字を追毀して汀州に送りて編管す。
現代語訳
鄭俠はまた上書して言った。「大臣は奏上して、三路の流民はみな南と北にそれぞれ田を持っており、これを燕子田と呼ぶ、もし北が旱なら南へ行き、南が荒れればまた北へ戻るのだ、としております。これはみな天子のお耳を欺くものです。臣は、三路の民が去年の冬から流れ移って今もやまないことを、照らし合わせて調べることをお願いします。いったい誰が、南方に田を持っている者なのですか」。ほかの言葉は大臣をそしることがはなはだ多く、あわせて御史台と諫院をそしって「みな藁人形や木偶のようだ」と言った。さらに宮中で甲を着けて殿に登ったことなどを述べた。上奏が入って執政は大いに怒り、天子に申し立てて朝政をそしったものとし、及第以来の文書を取り消して、汀州に送って監視下に置いた。
解説
説明の潰し方が実務的です。大臣の説は、もっともらしく聞こえました。**三路の流民はみな南と北にそれぞれ田を持っており、北が旱なら南へ行き、南が荒れればまた北へ戻る。**季節移動であって飢饉ではない、と。鄭俠は反論せず、照合を求めました。**三路の民が去年の冬から流れ移って今もやまないことを、照らし合わせて調べることをお願いします。**そして一行で締めます。**いったい誰が、南方に田を持っている者なのですか。**名前を一人挙げてみろ、と。
この章句が説くこと
三路の流民は皆南北の下に各ミ田有り燕子田と名づく若し北旱ならば則ち南し南荒ならば又た北す此れ皆上聴を誣罔するなり何人か是れ南方に田有る者ぞ弁明照合
関連する章句
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