宋名臣言行録 / 後集巻五・彭思永
御史蔣之竒奏發大臣隂事欲援公為助乃曰公嘗言之公亦謂帷簿之私非外人所知誠難究詰然亦有以取之故謗言一興而人以為信且其首為濮園議違典禮以犯衆怒不宜更在政府執政以之竒所論□昧不可質迫公言其所從來三問而公奏益急且曰風聞者以廣聰明也今必問其所從來因而罪之則後無聞矣寧甘重謫不敢廢國家開言路之法因極陳大臣朋黨専恣非國家計翌日降授給事中知黄州
新字:御史蒋之奇奏発大臣陰事欲援公為助乃曰公嘗言之公亦謂帷簿之私非外人所知誠難究詰然亦有以取之故謗言一興而人以為信且其首為濮園議違典礼以犯衆怒不宜更在政府執政以之奇所論□昧不可質迫公言其所従来三問而公奏益急且曰風聞者以広聰明也今必問其所従来因而罪之則後無聞矣寧甘重謫不敢廃国家開言路之法因極陳大臣朋党専恣非国家計翌日降授給事中知黄州
書き下し
御史蔣之奇、大臣の陰事を奏發し、公を援きて助けと爲さんと欲す。乃ち曰く、公嘗て之を言えりと。公も亦た謂う、帷簿の私は外人の知る所に非ず。誠に究詰し難し。然れども亦た以て之を取る有り。故に謗言一たび興りて人以て信と爲す。且つ其の首めて濮園の議を爲し、典禮に違いて衆怒を犯す。宜しく更に政府に在るべからずと。執政、之奇の論ずる所を□昧にして質す可からずと以て、公に其の從來する所を言えと迫る。三たび問うも公の奏益ミ急なり。且つ曰く、風聞は以て聰明を廣むるなり。今必ず其の從來する所を問い、因りて之を罪せば、則ち後に聞くこと無からん。寧ろ重謫を甘んじ、敢えて國家の言路を開くの法を廢せずと。因りて極めて大臣の朋黨專恣にして國家の計に非ざるを陳ぶ。翌日、給事中に降授せられて黄州を知す。
現代語訳
御史の蔣之奇が大臣の隠れた事を奏上して暴き、彭思永を引き入れて助けにしようとした。そこで「彭公がかつてこう言った」と述べた。彭思永もまたこう言った。「閨房の私事は外の者の知るところではありません。まことに突き詰めがたい。しかしまた、そう言われる原因もあります。だから謗る言葉がひとたび起これば、人はそれを信じる。そのうえ、まっさきに濮園の議を起こし、礼の定めに背いて衆人の怒りを買っている。もはや政府にあるべきではありません」。執政は、蔣之奇の論じたところが〔一字を欠く〕曖昧で確かめようがないとして、彭思永にその出どころを言えと迫った。三度問うたが、彭思永の上奏はいよいよ切迫した。そのうえで言った。「風聞は、それによって天子の見聞を広げるためのものです。いま必ずその出どころを問い、それによって罪に問うならば、この後、届くものはなくなります。むしろ重い左遷を甘んじて受け、あえて国家の言論の路を開く法を廃しはしません」。そこで大臣たちが党派を組んで専横し、国家のためになっていないことを、突き詰めて述べた。翌日、給事中に落とされて黄州の知事となった。
解説
この章句が説くこと
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