宋名臣言行録 / 後集巻六・王安石
㑹大旱自十一月不雨至於三月河東河北陜西流民大入京師與城外飢民市麻籸麥麩為糜或掘草根木實以食或身被鎖械而負瓦掲木賣妻鬻子以償官俠畫圖為書勾馬遞以聞曰如行臣之言十日不雨即乞斬臣以正欺罔之罪又自劾擅發馬□鋪待罪時熙寧七年三月二十六日也
新字:会大旱自十一月不雨至於三月河東河北陜西流民大入京師与城外飢民市麻籸麦麩為糜或掘草根木実以食或身被鎖械而負瓦掲木売妻鬻子以償官俠画図為書勾馬逓以聞曰如行臣之言十日不雨即乞斬臣以正欺罔之罪又自劾擅発馬□鋪待罪時熙寧七年三月二十六日也
書き下し
會ミ大旱、十一月より雨ふらず三月に至る。河東・河北・陝西の流民大いに京師に入る。城外の飢民と、麻籸麥麩を市いて糜と爲し、或いは草根木實を掘りて以て食らう。或いは身に鎖械を被りて瓦を負い木を掲げ、妻を賣り子を鬻ぎて以て官に償う。俠圖を畫き書を爲り、馬遞を勾して以て聞す。曰く、如し臣の言を行いて十日雨ふらずんば、即ち臣を斬りて以て欺罔の罪を正さんことを乞うと。又た自ら擅に馬□鋪を發せしを劾して罪を待つ。時に熙寧七年三月二十六日なり。
現代語訳
ちょうど大旱があり、十一月から雨が降らず三月に及んだ。河東・河北・陝西の流民が大挙して都に入った。城外の飢えた民とともに、麻の絞りかすと麦のふすまを買って粥にし、あるいは草の根や木の実を掘って食べた。あるいは身に鎖と枷をつけたまま瓦を背負い材木を掲げ、妻を売り子を売って官に弁償した。鄭俠は絵を描き、上書を作り、駅逓の馬を手配して奏上した。こう述べた。「もし臣の言うとおりに行って、十日たっても雨が降らなければ、その時は臣を斬って、欺き偽った罪を正していただきたい」。そのうえで、勝手に馬〔一字を欠く〕の駅を動かしたことを自ら弾劾して、処分を待った。時に熙寧七年三月二十六日である。
解説
有名な流民図の場面です。何が描かれていたかが、その前に並びます。**麻の絞りかすと麦のふすまを買って粥にし、草の根や木の実を掘って食べた。****鎖と枷をつけたまま瓦を背負い材木を掲げ、妻を売り子を売って官に弁償した。**そして絵に添えた一行が、この人の賭け方でした。**十日たっても雨が降らなければ、その時は臣を斬っていただきたい。**しかも、送った手段の違法性を自分から申告しています。**勝手に馬の駅を動かしたことを自ら弾劾して、処分を待った。**
この章句が説くこと
河東河北陝西の流民大いに京師に入る妻を売り子を鬻ぎて以て官に償う俠図を画き書を為り馬逓を勾して以て聞す如し臣の言を行いて十日雨ふらずんば即ち臣を斬りて以て欺罔の罪を正さんことを乞う飢饉絵
関連する章句
-
葉隠・聞書第一古人(こじん)の覚悟は深き事なり。十三以上六十以下出陣と云う事あり。それ故に、古老(ころう)は年をかくすといえり。
-
葉隠・聞書第一途中にて俄雨(にわかあめ)にあいて、濡れじとて道を急ぎ走り、軒下(のきした)などを通りても、濡るる濡るる事は替わらざるなり。初めより思いはまりて濡るる濡るる時、心に苦しみなく濡るる濡るる事は同じ。これ万(よろ)づにわたる心得なり。
-
論語・憲問篇子曰く、『士にして居を懐(おも)えば、以て士と為すに足らず。』
-
葉隠・聞書第一何某(なにがし)申し候は、「しおがれ浪人などと云うは、難儀千万(なんぎせんばん)この上なき様に皆人思うて、その期(ご)には殊(こと)の外(ほか)しおがれ草臥(くたび)るる事なり。浪人して後(のち)は左程(さほど)にはなきものなり。今一度(いまいちど)浪人仕(つかまつ)りたし。」と云う。もっともの事なり。死の道も、平生(へいぜい)に死習(しになら)うては、心安(こころやす)く死ぬべき事なり。奉公人の打留(うちどめ)は浪人切腹(せっぷく)に極(きわ)まりたると、兼ねて覚悟すべきなり。災難は前方(ぜんぽう)了簡(りょうけん)したる程には無きものなるを、先を量(はか)つて苦しむは愚かなる事なり。
-
葉隠・聞書第一打返しの仕様(しよう)は、踏懸けて切り殺さるるまでなり。これにて恥(はじ)にならぬなり。仕果(しは)たすべしと思ふゆゑ、間(ま)に合はず。向(むこう)は大勢(おおぜい)などと云ひて時を移し、しまり止(どめ)になる相談に極(きわ)まるなり。相手何千人もあれ、片端(かたはし)より撫切(なでぎ)りと思ひ定めて、立ち向ふまでにて成就(じょうじゅ)なり。多分(たぶん)仕(し)済ますものなり。又(また)浅野殿(あさのどの)浪人(ろうにん)夜討(ようち)も、泉岳寺(せんがくじ)にて腹切らぬが落度(おちど)なり。又主(しゅ)を討たせて、敵(かたき)を討つ事延び延びなり。若(も)し、その内に吉良殿(きらどの)病死の時は残念千万なり。上方衆(かみがたしゅう)は智慧(ちえ)かしこきゆゑ、褒めらるる仕様は上手(じょうず)なれども、長崎喧嘩(ながさきけんか)の様に無分別(むふんべつ)にする事はならぬなり。又曾我殿(そがどの)夜討も殊(こと)の外(ほか)の延引(えんいん)。幕(まく)の紋(もん)見物(けんぶつ)の時、祐成(すけなり)図(ず)をはづしたり。不運の事なり。五郎(ごろう)申し様(よう)見事なり。総(そう)じてかやうの批判(ひはん)はせぬものなれども、これも武道(ぶどう)の吟味(ぎんみ)なれば申すなり。前方(ぜんぽう)に吟味して置かねば、行(ゆ)き当りて分別(ふんべつ)出来(でき)合はぬゆゑ、おおかた恥になり候。話を聞き覚え、物の本を見るも、かねての覚悟のためなり。就中(なかんずく)、武道は今日の事も知らずと思ひて、日々夜々(ひびよよ)に箇条(かじょう)を立てて吟味すべき事なり。時の行掛(ゆきがか)りにて勝負はあるべし。恥をかかぬ仕様は別(べつ)なり。死ぬまでなり。これには智慧も業(わざ)も入らぬなり。死ぬまでといふは勝負を考へず、無二無三(むにむざん)に死狂(しにぐる)ひするばかりなり。これにて夢(ゆめ)覚むるなり。
-
説苑・立節越甲斉に至る。雍門子狄之に死せんことを請う。斉王曰わく、「鼓鐸の声未だ聞かず、矢石未だ交えず、長兵未だ接せず、子何ぞ死を務むるや。人臣為るの礼か」と。雍門子狄対えて曰わく、「臣之を聞く、昔者王囿に田す。左轂鳴りて、車右之に死せんことを請う。而して王曰わく、『子何為れぞ死せんとするや』と。車右対えて曰わく、『其の吾が君に鳴りしが為なり』と。王曰わく、『左轂の鳴るは工師の罪なり。子何の事か之有らんや』と。車右曰わく、『臣工師の乗るを見ずして、其の吾が君に鳴るを見るなり』と。遂に頸を刎ねて死す。之有るを知るか」と。斉王曰わく、「之有り」と。雍門子狄曰わく、「今越甲至る、其の吾が君に鳴るや、豈に左轂の下ならんや。車右左轂を以て死す可くして、臣独り越甲を以て死す可からざらんや」と。遂に頸を刎ねて死す。是の日越人甲を引きて七十里を退きて曰わく、「斉王臣有り、鈞しく雍門子狄の如くんば、越の社稷をして血食せざらしめんと擬す」と。遂に甲を引きて帰る。斉王雍門子狄を葬るに上卿の礼を以てす。