宋名臣言行録 / 後集巻六・王安石
雱死公罷相哀悼不忘有一日鳳鳥去千年梁木摧之詩葢以比孔子也公坐鍾山常恍惚見雱荷枷杻如重囚者公遂施所居半山園宅為寺以薦其福後公病瘡良苦嘗語其姪曰亟焚吾所謂日錄者姪紿公焚他書代之公乃死或云又有所見也
新字:雱死公罷相哀悼不忘有一日鳳鳥去千年梁木摧之詩葢以比孔子也公坐鍾山常恍惚見雱荷枷杻如重囚者公遂施所居半山園宅為寺以薦其福後公病瘡良苦嘗語其姪曰亟焚吾所謂日録者姪紿公焚他書代之公乃死或云又有所見也
書き下し
雱死し、公相を罷む。哀悼して忘れず。一日鳳鳥去り、千年梁木摧くの詩有り。蓋し以て孔子に比するなり。公鍾山に坐して、常に恍惚として雱の枷杻を荷うこと重囚の如き者を見る。公遂に居る所の半山園の宅を施して寺と爲し、以て其の福を薦む。後に公瘡を病みて良に苦しむ。嘗て其の姪に語りて曰く、亟かに吾が所謂日錄なる者を焚けと。姪公を紿きて他書を焚きて之に代う。公乃ち死す。或いは云う、又た見る所有るなりと。
現代語訳
王雱が死に、王安石は宰相を辞めた。哀しみ悼んで忘れなかった。「一日にして鳳鳥は去り、千年にして梁木は砕けた」という詩がある。思うに孔子になぞらえたのである。王安石は鍾山に座って、しばしばぼんやりと、王雱が首枷と手枷を負って重罪人のようになっている姿を見た。王安石はついに住んでいた半山園の邸を寄進して寺とし、その冥福を祈った。後に王安石は腫れ物を病んでひどく苦しんだ。かつてその甥に語って言った。「急いで、私のあの『日録』というものを焼け」。甥は王安石を欺いて、別の書を焼いてこれに代えた。王安石はやがて死んだ。ある説では、また何か見えるものがあったのだという。
解説
最晩年の三つの場面が並びます。まず、息子を孔子になぞらえた詩です。**一日にして鳳鳥は去り、千年にして梁木は砕けた。**次に、繰り返し見えた幻です。**王雱が首枷と手枷を負って重罪人のようになっている姿を見た。**父の目に、息子が罪人として映っている。そして最後に、自分の記録を焼こうとしました。**急いで、私のあの『日録』というものを焼け。**甥は焼いたふりをして残しています。
この章句が説くこと
雱死し公相を罷む哀悼して忘れず一日鳳鳥去り千年梁木摧く公鍾山に坐して常に恍惚として雱の枷杻を荷うこと重囚の如き者を見る亟かに吾が所謂日録なる者を焚け姪公を紿きて他書を焚きて之に代う罪責幻視
関連する章句
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『宋名臣言行録』後集巻六・王安石公晚年、鍾山の書院に於いて多く福建子の三字を寫す。蓋し呂惠卿を悔恨するなり。惠卿の陷るる所と爲るを恨み、惠卿の誤らしむる所と爲るを悔ゆるなり。毎に山行すれば多く恍惚として獨言すること狂者の若し。公既に病む。和甫邸吏の狀を以て公に示す。適ま司馬公相と作るを報ず。公悵然として曰く、司馬十二相と作れりと。公薨ず。溫公病中に在りて之を聞き、呂申公に簡して曰く、介甫に他無し。但だ執拗なるのみ。贈恤の典は宜しく厚くすべしと。溫公の盛德此くの如し。
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『宋名臣言行録』後集巻六・王安石初め惠卿は公の知る所と爲り、驟かに引かれて執政に至る。公去るや惠卿遂に之に背く。公再び相たるに暨び、是に於いて華亭の詔獄を起こして、徐禧等をして之を按ぜしむ。惠卿の情得ず。練亨甫・呂嘉問、鄧綰の條する所の惠卿の事を以て其の間に交ミ鬬わしむ。復た惠卿の中つる所と爲り、語公の子雱に連なる。雱時に已に病む。此に坐して憂憤して卒す。公の憂傷益ミ堪えず。遂に再び罷め去るを求む。
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