宋名臣言行録 / 後集巻六・王安石
公晚年於鍾山書院多冩福建子三字葢悔恨於吕惠卿者恨為惠卿所陷悔為惠卿所誤也每山行多恍惚獨言若狂者公既病和甫以邸吏狀示公適報司馬公作相公悵然曰司馬十二作相矣公薨温公在病中聞之簡吕申公曰介甫無他但執拗耳贈恤之典宜厚温公盛徳如此
新字:公晩年於鍾山書院多冩福建子三字葢悔恨於呂恵卿者恨為恵卿所陥悔為恵卿所誤也毎山行多恍惚独言若狂者公既病和甫以邸吏状示公適報司馬公作相公悵然曰司馬十二作相矣公薨温公在病中聞之簡呂申公曰介甫無他但執拗耳贈恤之典宜厚温公盛徳如此
書き下し
公晚年、鍾山の書院に於いて多く福建子の三字を寫す。蓋し呂惠卿を悔恨するなり。惠卿の陷るる所と爲るを恨み、惠卿の誤らしむる所と爲るを悔ゆるなり。毎に山行すれば多く恍惚として獨言すること狂者の若し。公既に病む。和甫邸吏の狀を以て公に示す。適ま司馬公相と作るを報ず。公悵然として曰く、司馬十二相と作れりと。公薨ず。溫公病中に在りて之を聞き、呂申公に簡して曰く、介甫に他無し。但だ執拗なるのみ。贈恤の典は宜しく厚くすべしと。溫公の盛德此くの如し。
現代語訳
王安石は晩年、鍾山の書院で「福建子」の三字を何度も書いた。思うに呂恵卿を悔い恨んだのである。呂恵卿に陥れられたことを恨み、呂恵卿に誤らされたことを悔いたのである。山を歩くたびに、ぼんやりと独り言を言うさまは狂った者のようであった。王安石はやがて病んだ。弟の和甫が官報の写しを見せた。ちょうど司馬光が宰相になったと報じていた。王安石は寂しげに言った。「司馬十二が宰相になったか」。王安石は薨じた。司馬光は病床にあってこれを聞き、呂公著に手紙を書いて言った。「介甫に他意はなかった。ただ強情なだけであった。贈り物と弔いの礼は、手厚くすべきである」。司馬光の徳の大きさは、このとおりであった。
解説
晩年の姿が三行で描かれます。**「福建子」の三字を何度も書いた。****山を歩くたびに、ぼんやりと独り言を言うさまは狂った者のようであった。**恨みと悔いが同時に書かれているのが要です。**呂恵卿に陥れられたことを恨み、呂恵卿に誤らされたことを悔いた。**自分が引き上げた人でした。そして死の知らせに、生涯の論敵が返した言葉が短い。**介甫に他意はなかった。ただ強情なだけであった。贈り物と弔いの礼は、手厚くすべきである。**
この章句が説くこと
公晩年鍾山の書院に於いて多く福建子の三字を写す恵卿の陥るる所と為るを恨み恵卿の誤らしむる所と為るを悔ゆるなり毎に山行すれば多く恍惚として独言すること狂者の若し介甫に他無し但だ執拗なるのみ贈恤の典は宜しく厚くすべし悔恨晩年
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