宋名臣言行録 / 後集巻六・王安石
初惠卿為公所知驟引至執政公去惠卿遂背之暨公再相於是起華亭詔獄而使徐禧等按之惠卿情不得練亨甫吕嘉問以鄧綰所條惠卿事交鬬其間復為惠卿所中語連公子雱雱時已病坐此憂憤而卒公憂傷益不堪遂再求罷去
新字:初恵卿為公所知驟引至執政公去恵卿遂背之暨公再相於是起華亭詔獄而使徐禧等按之恵卿情不得練亨甫呂嘉問以鄧綰所条恵卿事交鬬其間復為恵卿所中語連公子雱雱時已病坐此憂憤而卒公憂傷益不堪遂再求罷去
書き下し
初め惠卿は公の知る所と爲り、驟かに引かれて執政に至る。公去るや惠卿遂に之に背く。公再び相たるに暨び、是に於いて華亭の詔獄を起こして、徐禧等をして之を按ぜしむ。惠卿の情得ず。練亨甫・呂嘉問、鄧綰の條する所の惠卿の事を以て其の間に交ミ鬬わしむ。復た惠卿の中つる所と爲り、語公の子雱に連なる。雱時に已に病む。此に坐して憂憤して卒す。公の憂傷益ミ堪えず。遂に再び罷め去るを求む。
現代語訳
はじめ呂恵卿は王安石に見込まれ、急に引き上げられて執政に至った。王安石が去ると、呂恵卿はついにこれに背いた。王安石がふたたび宰相となると、そこで華亭の詔獄を起こして、徐禧らに取り調べさせた。呂恵卿の内実はつかめなかった。練亨甫と呂嘉問は、鄧綰が挙げていた呂恵卿の件をもって、そのあいだで互いに闘わせた。ふたたび呂恵卿に反撃され、話は王安石の子の雱にまで及んだ。雱はそのときすでに病んでいた。これに連座して憂え憤って死んだ。王安石の悲しみはますます堪えがたくなった。ついにふたたび辞任を願い出た。
解説
自分が引き上げた相手との争いが、どこまで行ったかの記録です。取り調べは空振りに終わりました。**呂恵卿の内実はつかめなかった。**そこから泥沼になります。**練亨甫と呂嘉問は、鄧綰が挙げていた呂恵卿の件をもって、そのあいだで互いに闘わせた。**互いの弱みを持ち寄って戦わせる段階に入っている。そして跳ね返りが、いちばん近いところに来ました。**話は王安石の子の雱にまで及んだ。雱はそのときすでに病んでいた。これに連座して憂え憤って死んだ。**
この章句が説くこと
初め恵卿は公の知る所と為り驟かに引かれて執政に至る公去るや恵卿遂に之に背く是に於いて華亭の詔獄を起こして徐禧等をして之を按ぜしむ語公の子雱に連なる此に坐して憂憤して卒す裏切り獄
関連する章句
-
『韓非子』說林下二十三吾嘗て音を好むに、此の人我に鳴琴を遺る。...是れ我が過を振する者なり。...吾其の我を以て容れらるるを人に求めんことを恐るるなり。
-
呂氏春秋・長攻③楚王、息と蔡とを取らんと欲す。乃ち先づ佯りて蔡侯に善くし、而して之と謀りて曰く、「吾息を得んと欲す、奈何。」蔡侯曰く、「息の夫人は、吾が妻の姨なり。吾請う、為りに息侯と其の妻なる者とを饗し、而して王と俱にし、因りて之を襲わん。」楚王曰く、「諾。」是に於て蔡侯と饗禮を以て息に入り、因りて與俱に遂に息を取る。旋りて、蔡に舎し、又蔡を取る。
-
呂氏春秋・無義②公孫鞅の秦に於けるや、父兄なるに非ず、故有るに非ず、能を以て用いられしなり。之が責を堙がんと欲すれば、攻に非ずんば以てすること無きなり。是に於て秦の將と為りて魏を攻む。魏、公子卬をして將として之に當たらしむ。公孫鞅の魏に居りしとき、固より公子卬に善し。人をして公子卬に謂わしめて曰く、「凡そ游を為して貴ならんと欲する所の者は、公子の故を以てなり。今、秦は鞅をして將たらしめ、魏は公子をして之に當たらしむ。豈に且に相與に戰うことに忍びんや。公子、之を公子の主に言え、鞅も亦た之を主に言いて、皆軍を罷めんと請う。」是に於て將に歸らんとす。人をして公子に謂わしめて曰く、「歸らば未だ時の相見ること有らじ。願わくは、公子と坐して相去別せん。」公子曰く、「諾。」魏の吏、之を爭いて曰く、「不可なり。」公子聽かず。遂に相與に坐ず。公孫鞅因りて卒と車騎とを伏して以て公子卬を取る。秦の孝公薨じ、惠王立つ。此を以て公孫鞅の行を疑い、罪を加えんと欲す。公孫鞅、其の私屬と母とを以て魏に歸せんとす。襄疵受けずして曰く、「君の公子卬に反するを以てや、吾君を知るに道無し。」故に士の自ら行うは審らかにせざる可からざるなり。
-
戦国策・秦召燕王秦、燕王を召す。燕王往かんと欲す。蘇代、燕王に約して曰く、「楚、枳を得て国亡び、斉、宋を得て国亡ぶ。斉・楚、枳・宋を有つを以て秦に事えざる者は、何ぞや。是れ則ち功有る者は、秦の深讎なり。秦の天下を取るは、義を行うに非ざるなり、暴なり。 秦の暴を天下に行うや、正しく楚に告げて曰く、『蜀地の甲、軽舟にて汶に浮かび、夏水に乗じて江を下れば、五日にして郢に至らん。漢中の甲、舟に乗じて巴より出で、夏水に乗じて漢を下れば、四日にして五渚に至らん。寡人甲を宛に積み、東のかた隨に下れば、知者も謀るに及ばず、勇者も怒るに及ばず、寡人の隼を射るが如し。王乃ち天下の函谷を攻むるを待たば、亦た遠からずや』と。楚王是が為の故に、十七年秦に事う。 秦正しく韓に告げて曰く、『我少曲より起ちて、一日にして太行を断つ。我宜陽より起ちて平陽に触るれば、二日にして繇わざる莫し。我両周を離れて鄭に触るれば、五日にして国挙がらん』と。韓氏以て然りと為し、故に秦に事う。 秦正しく魏に告げて曰く、『我安邑を挙げ、女戟を塞げば、韓氏・太原巻かる。我枳を下し、南陽・封・冀に道すれば、両周を包み、夏水に乗じ、軽舟に浮かべ、強弩前に在り、銛戈後に在り、榮口を決すれば、魏に大梁無く、白馬の口を決すれば、魏に済陽無く、宿胥の口を決すれば、魏に虚・頓丘無し。陸攻すれば則ち河内を撃ち、水攻すれば則ち大梁を滅ぼさん』と。魏氏以て然りと為し、故に秦に事う。 秦安邑を攻めんと欲し、斉の之を救わんことを恐れ、則ち宋を以て斉に委ねて曰く、『宋王無道にして、木人を為りて以て寡人に写し、其の面を射しむ。寡人地絶ち兵遠くして、攻むる能わざるなり。王苟くも能く宋を破りて之を有たば、寡人自ら之を得たるが如し』と。已に安邑を得て女戟を塞ぐや、因りて宋を破るを以て斉の罪と為す。 秦斉を攻めんと欲し、天下の之を救わんことを恐れ、則ち斉を以て天下に委ねて曰く、『斉王四たび寡人と約して、四たび寡人を欺けり。必ず天下を率いて寡人を攻むる者三たびなり。斉有りて秦無く、斉無くして秦有らば、必ず之を伐ち、必ず之を亡ぼさん』と。已に宜陽・少曲を得て、藺・石を致すや、因りて斉を破るを以て天下の罪と為す。 秦魏を攻めんと欲し、楚を重んずれば、則ち南陽を以て楚に委ねて曰く、『寡人固より韓と且に絶えんとす。均陵を残ない、鄳隘を塞げば、苟くも楚に利あらば、寡人自ら之を有つが如し』と。魏与国を棄てて秦に合すれば、因りて鄳隘を塞ぐを以て楚の罪と為す。 兵林中に困しみ、燕・趙を重んずれば、膠東を以て燕に委ね、済西を以て趙に委ぬ。趙魏に講を得て、公子延に至り、因りて犀首行を属して趙を攻む。兵離石に傷つき、馬陵に敗を遇い、而して魏を重んずれば、則ち葉・蔡を以て魏に委ぬ。已に趙に講を得れば、則ち魏を劫かし、魏割かず。困しめば則ち太后・穰侯をして和せしめ、羸うれば則ち舅と母とを兼ねて欺く。燕に適く者は曰く、『膠東を以てす』と。趙に適く者は曰く、『済西を以てす』と。魏に適く者は曰く、『葉・蔡を以てす』と。楚に適く者は曰く、『鄳隘を塞ぐを以てす』と。斉に適く者は曰く、『宋を以てす』と。此れ必ず其の言をして循環の如くならしめ、兵を用うること蜚繡を刺すが如く、母も制する能わず、舅も約する能わず。龍賈の戦、岸門の戦、封陸の戦、高商の戦、趙荘の戦、秦の殺す所の三晋の民数百万。今其の生くる者、皆秦の孤に死せし者なり。西河の外、上雒の地、三川は、晋国の禍にして、三晋の半ばなり。秦の禍此くの如く其れ大なるに、燕・趙の秦する者、皆秦に事うるを争うを以て其の主に説く、此れ臣の大いに患うる所なり」と。 燕昭王行かず、蘇代復た燕に重んぜらる。燕反りて諸侯に約して従親せしむること、蘇秦の時の如く、或いは従い或いは従わざれども、天下是に由りて蘇氏の従約を宗とす。代・厲皆寿を以て死し、名諸侯に顕る。
-
呂氏春秋・無義④趙、急に李欬を求む。李、續經に言いて、之と俱に衛に如き、公孫與に抵る。公孫與見て與に入る。續經因りて衛の吏に告げて之を捕えしむ。續經以て趙に仕えて五大夫たり。人與に朝を同じくする莫く、子孫以て交友す可からず。
-
『宋名臣言行録』後集巻六・王安石惠卿入りて參ずるに及び、羿を射るの意有り。而して一時の士は其の君を得るを見て、以て公を傾奪す可しと謂う。遂に更ミ朋附す。既にして天子意を斷じて再び公を召して政を秉らしむ。惠卿自ら不安を知り、乃ち公の兄弟の失を條列すること凡そ數事、面奏す。意は上意に二有らんことを欲す。上惠卿の言う所を封じて以て公に示す。故に公の表に、忠は以て治を取るに足らず、故に事事其の自ら明らかならんことを欲す。義は以て姦に勝つに足らず、故に人人之と敵を立つと有るは、蓋し是を謂うなり。既にして惠卿出でて亳州を知す。鄧綰・張諤の徒は皆罪を以て去る。然れども是れより門下の人皆固志無し。公與に事を圖る者無し。又た去るを請いて再び金陵に鎮す。故に詩に、紛紛として變じ易し浮雲の白、落落として鍾け難し老柏の青なる者有るは、蓋し是を謂うなり。