宋名臣言行録 / 後集巻六・王安石
蔡京者知開封府用五日限盡改畿縣雇役之法為差役白温公公喜曰使人人如待制何患法不行子厚入相復議以雇役改差役置司講論乆不決蔡京兼提舉白子厚曰取熙寧元豐法施行之耳尚何講焉子厚信之雇役遂定京前後觀望反覆賢如温公暴如子厚皆足以欺之誠小人也
新字:蔡京者知開封府用五日限尽改畿県雇役之法為差役白温公公喜曰使人人如待制何患法不行子厚入相復議以雇役改差役置司講論久不決蔡京兼提舉白子厚曰取熙寧元豊法施行之耳尚何講焉子厚信之雇役遂定京前後観望反覆賢如温公暴如子厚皆足以欺之誠小人也
書き下し
蔡京なる者、開封府を知り、五日の限りを用いて盡く畿縣の雇役の法を改めて差役と爲す。溫公に白す。公喜びて曰く、人人をして待制の如くならしめば、何ぞ法の行われざるを患えんと。子厚相に入り、復た議して雇役を以て差役に改めんとす。司を置きて講論すること久しく決せず。蔡京提舉を兼ね、子厚に白して曰く、熙寧元豐の法を取りて之を施行するのみ。尚お何をか講ぜんやと。子厚之を信ず。雇役遂に定まる。京は前後觀望反覆す。賢なること溫公の如く、暴なること子厚の如きも、皆以て之に欺かるるに足る。誠に小人なり。
現代語訳
蔡京という者は、開封府の知事として、五日の期限を用いて、都に近い県の雇役の法をすべて差役に改めた。司馬光に報告した。司馬光は喜んで言った。「人がみな待制のようであれば、法が行われないことを心配することがあろうか」。章惇が宰相に入り、あらためて雇役をもって差役に改めることを議した。担当の司を置いて議論したが、長く決まらなかった。蔡京は提挙を兼ねており、章惇に申し上げて言った。「熙寧・元豊の法を取って施行するだけです。それ以上、何を議することがありましょう」。章惇はこれを信じた。雇役はそこで定まった。蔡京は前後で様子をうかがって寝返った。司馬光のように賢い人も、章惇のように激しい人も、みなこの男に欺かれるに十分であった。まことに小人である。
解説
この章句が説くこと
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『十善法語』巻第二・不偸盜戒近世ノ道俗ヲ誘ヒ導ク者ハ。易キヨリ易キニ就テ。我宗門ノ中ニハ。過ヲ改メ悪ヲ止ルニハ及ヌト云。持戒禅定モ廃スヘシト云。識別有ン者ハ推察シ看ヨ。仏世賢聖在世ハ。諸天八部人非人道俗男女ミナ善ヨリ善ニ遷タコトシヤ。倶ニ分ニ随テ持戒修禅モ有タシヤ。人ニ良心アレハ善根ノ勤ラレヌト云コトハ有マシキソ。中古已来伶利ノ士カ世ニ随ヒ俗ニ応シテ人ヲ教化ス。其次ニ出ル者ハ。又世俗ニ順シ人情ニ就。ソノ次ニ出ル者更ニ世俗ニ順シ人情ニ就テ。遂ニ賢聖ノ正規則ヲ取失フ様ニナリ下リ。悪ヲ作シテ差ヌ様ニナリ下タコトシヤ。近古明恵上人ノ言ニ。今ノ諸宗ノ者ノ云通リカ仏法ナラハ。諸道ノ中ニ仏法ヨリワロキコトハナキト。此等ハ見タ処アル趣シヤ。
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尚書・大禹謨疑謀は成すこと勿(な)ければ、百志惟れ熙(ひろ)まらん。道に違ひて以て百姓の誉れを干(もと)むる罔(な)く、百姓に咈(もと)りて以て己の欲に従ふ罔かれ。怠ること無く荒むこと無ければ、四夷来たり王とせん」と。禹曰く、「於(ああ)、帝念へや。
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『講孟余話』告子下 第七章「故に曰く、今の大夫は今の諸侯の罪人なり」。此の一節、是れ全章帰宿の処にして、遽かに是を読めば、甚だ索然たるが如し。細かに是を味ふに、今の大夫其の君に告ぐるに三王の道を以てすること能はざるのみならず、五覇の道すら時に行はしむること能はず。小にしては君の悪を長じ、大にしては君の悪を逢ふる、最も悪むべきことなり。大夫の罪彼が如くにして、諸侯敢へて是を罪せざるのみならず、方に且つ是を崇び是を愛す。是れ又諸侯の罪なり。大夫として真切に是を今日に求むる時は、三王の道の内、「土地辟け、田野治まり、老を養ひ賢を尊び、俊傑位に在り」の数句、五覇の道の内、「不孝を誅し、樹子を易ふること無く、妾を以て妻と為すこと無く、賢を尊び才を育て、以て有徳を彰し、老を敬ひ幼を慈しみ、賓旅を忘るること無く、士は官を世々にすること無く(此の一句尤も熟思すべし)、官事は摂ぬること無く(此の一句は専権を慮るなり)、士を取るには必ず得、専ら大夫を殺すこと無く、防を曲ぐること無く(此の一句は防のみに非ず、総て己を利し人を害することを為す勿れ)、糴を遏むること無く(此の二句は隣に交るの礼しかり)、封ずること有りて告げざること無く、言に好に帰す」の五命十四五事、勉めて是を其の国に行はば、諸侯の罪人たるを免るべし。凡そ王政の事は、所謂時勢を待つに如かず。
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史記 酷吏列伝数々廃せられ数々起こり、御史及び中丞為ること幾ど二十歳。王温舒中尉を免ぜられ、而して宣左内史と為る。其の米塩を治む、事の大小皆其の手に関はる、自ら県名曹の実物を部署し、官吏令丞擅に揺かすことを得ず、痛く重法を以て之を縄す。官に居ること数年、一切の郡中小治弁を為す、然れども独り宣のみ小を以て大に致し、能く力に因りて之を行ふ、以て経と為し難し。中ごろ廃せらる。右扶風と為り、成信を怨むに坐す、信亡げて上林の中に蔵る、宣郿の令をして信を格殺せしむ、吏卒信を格する時、射て上林苑の門に中つ、宣吏に下されて罪を詆られ、以て大逆と為し、族に当たる、自殺す。而して杜周任用せらる。杜周は、南陽杜衍の人なり。義縦南陽の守為り、以て爪牙と為し、挙げて廷尉史と為す。張湯に事ふ、湯数々其の害無きを言ひ、御史に至る。辺の失亡を案ぜしむ、論殺する所甚だ衆し。事を奏して上の意に中る、任用せられ、減宣と相編み、更々中丞と為ること十余歳。其の治宣と相放ふ、然れども重遅にして、外は寛、内は深く骨に次ぐ。宣左内史為り、周廷尉為り、其の治大いに張湯に放ひて善く候伺す。上の擠さんと欲する所は、因りて之を陥れ、上の釈さんと欲する所は、久しく繋ぎて問を待ちて微かに其の冤状を見す。客周を譲めて曰く、「君天子の為に平を決す、三尺の法に循はず、専ら人主の意指を以て獄を為す。獄は固より是くの如きか」と。周曰く、「三尺安くより出づるや。前主の是とする所は著して律と為し、後主の是とする所は疏して令と為す、当時是と為す、何ぞ古の法ならんや」と。周廷尉と為るに至り、詔獄も亦益々多し。二千石の繋がるる者新故相因り、百余人を減ぜず。郡吏大府之を廷尉に挙ぐ、一歳に千余章に至る。章の大なる者は連逮証案数百、小なる者は数十人。遠き者は数千、近き者は数百里。獄に会し、吏因りて責むること章の告劾の如くし、服せざれば、笞掠を以て之を定む。
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史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
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史記 孝武本紀間者(このごろ)河皋陸に溢れ、隄繇息まず。朕天下に臨むこと二十有八年、天若し朕に士を遺りて大いに通ぜしむ。乾に『蜚龍』と称し、『鴻般に漸む』と、意ふに庶幾くは焉に与らん。其れ二千戸を以て地士将軍大を封じて楽通侯と為せ。」と。列侯の甲第、僮千人を賜ふ。乗輿の斥けし車馬帷帳器物を以て其の家に充つ。又衛長公主を以て之に妻はせ、金万斤を齎し、更めて其の邑を名づけて当利公主と曰ふ。天子親ら五利の第に如く。使者の存問して給する所、道に連属す。大主将相より以下、皆其の家に置酒し、之に献遺す。是に於て天子又玉印を刻して「天道将軍」と曰ひ、使をして羽衣を衣て、夜白茅の上に立たしめ、五利将軍も亦羽衣を衣て、白茅の上に立ちて印を受く、以て臣とせざるを示すなり。而して「天道」を佩ぶる者は、且に天子の為に天神を道(みちび)かんとするなり。是に於て五利常に夜其の家に祠り、以て神を下さんと欲す。神未だ至らずして百鬼集まる、然れども頗る能く之を使ふ。其の後装を治めて行き、東して海に入り、其の師を求むと云ふ。大見えて数月、六印を佩び、貴きこと天下を振るはす、而して海上燕斉の間、搤捥(やくわん)して自ら禁方有り、能く神僊すと言はざる莫し。其の夏六月中、汾陰の巫錦民の為に魏脽の后土の営の旁に祠る、地の鉤の状の如きを見、掊(ほ)りて視るに鼎を得たり。鼎大いに衆鼎に異なり、文鏤ありて款識毋し、之を怪しみ、吏に言ふ。吏河東の太守勝に告ぐ、勝以て聞す。天子使をして巫錦の鼎を得るに姦詐無きを験問せしめ、乃ち礼を以て祠り、鼎を迎へて甘泉に至らしめ、行に従ひて、上之を薦めんとす。中山に至る、晏温にして、黄雲有りて蓋ふ。麃過ぐる有り、上自ら之を射、因りて以て祭る云。長安に至る、公卿大夫皆議して宝鼎を尊ばんことを請ふ。天子曰く、「間者河溢れ、歳数(しばしば)登らず、故に巡りて后土を祭り、百姓の為に穀を育まんことを祈る。

人生を、一行の式にしてみた。
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