韓非子 / 說林下二十三
公奚不休舍,且待後車?」文子曰:「吾嘗好音,此人遺我鳴琴;吾好珮,此人遺我玉環:是振我過者也。以求容於我者,吾恐其以我求容於人也。
新字:公奚不休舎,且待後車?」文子曰:「吾嘗好音,此人遺我鳴琴;吾好珮,此人遺我玉環:是振我過者也。以求容於我者,吾恐其以我求容於人也。
書き下し
吾嘗て音を好むに、此の人我に鳴琴を遺る。...是れ我が過を振する者なり。...吾其の我を以て容れらるるを人に求めんことを恐るるなり。
現代語訳
私は以前、音楽を好んだら、この男は私に琴を贈ってきた。...これは私の(贅沢という)欠点を助長させた者だ。...私は、彼が(今度は)私を(捕らえて)他人に取り入ろうとするのではないかと恐れている。
解説
リーダーの「好み」や「欠点」に合わせて(我が過を振す)、ひたすらイエスマンとして振る舞う部下(嗇夫)は、真の忠臣ではないという見識です。彼はリーダー個人(文子)に忠誠を誓っているのではなく、「リーダーの権力」に迎合しているだけです。そのため、リーダーが権力を失えば、真っ先に裏切り(後車を収め)、新しい権力者に迎合します。
この章句が説くこと
イエスマン忠誠心迎合裏切り情実人事
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『韓非子』難言第三言いて世に近く、辭悖逆せざれば
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葉隠・聞書第二させる奉公も仕(つかまつ)らず、虎口前(ここうまえ)仕りたる事もなく候えども、若年の時分より一向(いっこう)に、「殿の一人被官(ひとりひかん)は我なり、武勇は我一人なり。」と骨髄(こつずい)に徹し、思込み候故(ゆえ)か、何たる利発人(りはつじん)、御用に立つ人にても押し下げ得(え)申されず候。却(かえ)って諸人(しょにん)の取持(とりも)ち勿体(もったい)なく候。唯(ただ)殿を大切に存じ、何事にてもあれ、死狂(しにぐる)いは我一人と内心に覚悟仕りたるまでにて候。今こそ申せ、終(つい)に人に語り申さず候えども、一念天地を動かす故にて候か、人にゆるされ申し候。御子様方(おこさまがた)始め、諸人の御懇意(ごこんい)誠に痛み入り申す事にて候。主人に思い附く事は、御譜代(ごふだい)の士は、御先祖より歴々(れきれき)御奉公申され候て、知行(ちぎょう)御加増、金銀過分に拝領ほど有り難き御家に候えば、奉公するの、せぬのには、より申さぬ事はなく候えども、それよりは唯御一言(ごいちごん)が、忝(かたじけ)なくて腹を切る志は発(おこ)るものなり。火事御仕組(おしくみ)に、江戸にて御書物心遣(こころづか)いと申上げられたり。又大阪にて御夜(およ)の物御蒲団(おふとん)拝領の時、「慰方(なぐさめかた)に候て、忽(たちま)ち身命を捨つる心になりたり。」と申されたり。あわれ昔ならば此の蒲団を敷き、此の夜着(よぎ)をかぶり、追腹(おいばら)仕るべきものと、骨髄有り難く存じ奉り候なり。
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史記 鄭世家鄭子八年、斉人管至父等乱を作し、其の君襄公を弑す。十二年、宋人長万其の君湣公を弑す。鄭の祭仲死す。十四年、故の鄭の亡げし厲公突の櫟に在る者、人をして鄭の大夫甫仮を誘ひ劫かさしめ、要して以て入らんことを求む。仮曰く、「我を捨てよ。我君の為に鄭子を殺して君を入れん」と。厲公与に盟ひ、乃ち之を捨つ。六月甲子、仮、鄭子及び其の二子を殺して厲公突を迎ふ。突、櫟より復た入りて位に即く。初め、内蛇と外蛇と鄭の南門の中に闘ひ、内蛇死す。居ること六年、厲公果たして復た入る。入りて其の伯父原を譲めて曰く、「我国を亡げて外に居る。伯父我を入るるに意無し。亦甚だしきかな」と。原曰く、「君に事へて二心無きは、人臣の職なり。原罪を知れり」と。遂に自殺す。厲公是に於て甫仮に謂ひて曰く、「子の君に事ふるや二心有り」と。遂に之を誅す。仮曰く、「重徳報いられず、誠に然るかな」と。厲公突の後元年、斉の桓公始めて霸たり。五年、燕・衛、周の恵王の弟穨と王を伐つ。王出でて温に奔る。弟穨を立てて王と為す。六年、恵王急を鄭に告ぐ。厲公兵を発して周の王子穨を撃つも、勝たず。是に於て周の恵王と帰り、王櫟に居る。七年春、鄭の厲公、虢叔と王子穨を襲殺して恵王を周に入る。秋、厲公卒し、子文公踕立つ。厲公初め立ちて四歳、亡げて櫟に居る。櫟に居ること十七歳、復た入る。立ちて七歳、亡と凡そ二十八年。二十四年、文公の賤妾燕姞と曰ふ、夢に天之に蘭を与へて曰く、「余は伯鯈為り。余は爾の祖なり。是を以て而の子と為せ。蘭は国香有り」と。夢を以て文公に告ぐ。文公之を幸し、之に草蘭を予へて符と為す。遂に子を生む。名づけて蘭と曰ふ。三十六年、晋の公子重耳過る。文公礼せず。
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史記 魏豹彭越列伝伝へて滎陽に詣らしめ、豹の国を以て郡と為す。漢王豹をして滎陽を守らしむ。楚之を囲むこと急にして、周苛遂に魏豹を殺す。
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史記 陳渉世家秦嘉命を受けず、嘉自ら立ちて大司馬と為り、武平君に属するを悪む。軍吏に告げて曰く、「武平君は年少く、兵事を知らず、聴くこと勿かれ」と。因りて矯めて王命を以て武平君畔を殺す。章邯已に伍徐を破り、陳を撃つ、柱国房君死す。章邯又兵を進めて陳の西の張賀の軍を撃つ。陳王出でて戦を監す、軍破れ、張賀死す。臘月、陳王汝陰に之き、還りて下城父に至る、其の御荘賈殺して以て秦に降る。陳勝碭に葬られ、謚して隠王と曰ふ。陳王の故の涓人将軍呂臣倉頭軍と為り、新陽に起こり、陳を攻めて之を下し、荘賈を殺し、復た陳を以て楚と為す。初め、陳王陳に至り、銍の人宋留をして兵を将ゐて南陽を定め、武関に入らしむ。留已に南陽を徇へしも、陳王の死を聞き、南陽復た秦と為る。宋留武関に入る能はず、乃ち東して新蔡に至り、秦軍に遇ひ、宋留軍を以て秦に降る。秦留を伝へて咸陽に至らしめ、留を車裂して以て徇ふ。秦嘉等陳王の軍破れて出走するを聞き、乃ち景駒を立てて楚王と為し、兵を引きて方与に之き、秦軍を定陶の下に撃たんと欲す。公孫慶をして斉王に使ひせしめ、与に力を并せて俱に進まんと欲す。斉王曰く、「陳王戦ひ敗れ、其の死生を知らずと聞く、楚安んぞ請はずして王を立つるを得んや」と。公孫慶曰く、「斉は楚に請はずして王を立つ、楚何の故に斉に請ひて王を立てんや。且つ楚は事を首む、当に天下に令すべし」と。田儋公孫慶を誅殺す。秦の左右の校復た陳を攻め、之を下す。呂将軍走り、兵を収めて復た聚む。鄱の盗当陽君黥布の兵と相収め、復た秦の左右の校を撃ち、之を青波に破り、復た陳を以て楚と為す。会々項梁懐王の孫心を立てて楚王と為す。陳勝王たること凡そ六月。已に王と為り、陳に王たり。其の故人の嘗て与に庸耕せし者之を聞き、陳に之き、宮門を扣きて曰く、「吾渉に見えんと欲す」と。宮門の令之を縛せんと欲す。自ら辯ずること数々にして、乃ち置く、肯へて為に通ぜず。
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『春秋左氏伝』哀公十六年 孔悝の出奔六月、衛侯、孔悝に平陽に酒を飲ましめ、重く之に酬ゆ。大夫皆納るる有り。醉はしめて之を送り、夜半にして之を遣る。伯姬を平陽に載せて行く。西門に及び、貳車をして祏を西圃に反さしむ。子伯季子、初め孔氏の臣たり、新たに公に登る。之を追はんと請ふ。祏を載する者に遇ひ、殺して其の車に乘る。許公為、祏を反す。之に遇ひて曰く、「不仁の人と爭はば、明らかに勝たざる無し」と。必ず先づ射しむ。射ること三發、皆許為に遠し。許為、之を射て殪す。或ひと其の車を以て從ひ、祏を橐中に得たり。孔悝、出でて宋に奔る。楚の大子建の讒に遇ふや、城父より宋に奔る。又華氏の亂を鄭に辟く。鄭人甚だ之を善くす。又晉に適き、晉人と鄭を襲はんことを謀り、乃ち復らんことを求む。鄭人之を復すること初めの如し。晉人、諜を子木に使はし、行を請ひて期す。子木、其の私邑に暴虐なり。
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