宋名臣言行録 / 後集巻六・王安石
司馬温公嘗曰昔與王介甫同為羣牧司判官包孝肅為使時號清嚴一日羣牧司牡丹盛開包公置酒賞之公舉酒相勸光素不喜酒亦強飲之介甫終席不飲包公不能強也光以此知其不屈
新字:司馬温公嘗曰昔与王介甫同為羣牧司判官包孝粛為使時号清厳一日羣牧司牡丹盛開包公置酒賞之公舉酒相勧光素不喜酒亦強飲之介甫終席不飲包公不能強也光以此知其不屈
書き下し
司馬溫公嘗て曰く、昔王介甫と同じく羣牧司判官と爲る。包孝肅使爲り。時に清嚴を號す。一日、羣牧司の牡丹盛んに開く。包公酒を置きて之を賞す。公酒を舉げて相い勸む。光素より酒を喜ばず。亦た強いて之を飲む。介甫は席を終うるまで飲まず。包公も強うる能わざるなり。光此を以て其の屈せざるを知ると。
現代語訳
司馬光はかつて言った。「昔、王安石とともに群牧司判官であった。包拯が長官であった。当時、清らかで厳しいことで知られていた。ある日、群牧司の牡丹が盛りに咲いた。包拯は酒を用意してこれを愛でた。包拯が杯を挙げて勧めた。私はもとから酒を好まない。それでも無理をして飲んだ。王安石は席が終わるまで飲まなかった。包拯も強いることができなかった。私はこれによって、あの人が屈しないことを知った」。
解説
小さな酒席の記憶が、後の三十年を説明する材料として置かれています。同じ場に、同じく酒を好まない二人がいました。片方は飲みました。**私はもとから酒を好まない。それでも無理をして飲んだ。**もう片方は飲みませんでした。**王安石は席が終わるまで飲まなかった。包拯も強いることができなかった。**清厳で名高い上司が勧めても動かない。司馬光の受け取り方が正確です。**私はこれによって、あの人が屈しないことを知った。**
この章句が説くこと
昔王介甫と同じく羣牧司判官と為る包孝粛使為り包公酒を置きて之を賞す光素より酒を喜ばず亦た強いて之を飲む介甫は席を終うるまで飲まず光此を以て其の屈せざるを知る意志酒席
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