宋名臣言行録 / 後集巻六・曾公亮
在樞府更制圖籍以周知四方兵數多少登耗三路屯戌衆寡地里逺近及在相位謂政事以仁民為先故其志尤急於去民所疾苦而補助其窮乏罷弛茶禁歸之於民籍戸絶田收其租為廣惠倉以廪食窮獨其他施設多類此
新字:在枢府更制図籍以周知四方兵数多少登耗三路屯戌衆寡地里遠近及在相位謂政事以仁民為先故其志尤急於去民所疾苦而補助其窮乏罷弛茶禁帰之於民籍戸絶田収其租為広恵倉以廪食窮独其他施設多類此
書き下し
樞府に在りて圖籍を更制し、以て四方の兵數の多少・登耗、三路の屯戍の衆寡、地里の遠近を周く知る。相位に在るに及び、政事は民に仁なるを先と爲すと謂う。故に其の志は尤も民の疾苦する所を去りて其の窮乏を補助するに急なり。茶禁を罷め弛めて之を民に歸し、戸絶の田を籍して其の租を收めて廣惠倉と爲し、以て窮獨に廩食す。其の他の施設も多く此に類す。
現代語訳
枢密府にあって図と帳簿を作り直し、それによって四方の兵の数の多少と増減、三路の駐屯守備の多い少ない、土地の道のりの遠近を、あまねく把握した。宰相の位に就くと、政事は民に仁であることを先とすると考えた。だからその志は、とりわけ民の苦しんでいるものを取り除き、その窮乏を補い助けることに急であった。茶の専売の禁を廃してゆるめ、これを民に戻し、相続人の絶えた田を帳簿に立ててその租を収め、広恵倉として、身寄りのない者に食を給した。そのほかの施策も、多くはこの類であった。
解説
軍を預かって、最初にしたのが台帳の作り直しでした。**四方の兵の数の多少と増減、三路の駐屯守備の多い少ない、土地の道のりの遠近を、あまねく把握した。**兵を動かす前に、どこに何人いてどれだけ離れているかを揃える。范鎮が「兵と民と財を別々の役所が知らずに決めている」と論じた、その把握の側の仕事です。宰相になってからの施策も、同じ手つきでした。**相続人の絶えた田を帳簿に立ててその租を収め、広恵倉として。**
この章句が説くこと
枢府に在りて図籍を更制し以て四方の兵数の多少登耗を周く知る政事は民に仁なるを先と為す其の志は尤も民の疾苦する所を去りて其の窮乏を補助するに急なり戸絶の田を籍して其の租を収めて広恵倉と為し以て窮独に廩食す台帳把握
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