宋名臣言行録 / 後集巻一・韓琦
公自為相即與當時諸公同力一德謀議制作銓補天下士所汲引多正直有名或忠厚可鎮風俗以公議用之士莫知出何人門下嘉祐四年下祫享赦事多便民者命諸路舉學行尤異篤遣詣京師館於太學試舍人院差使授官立柴氏後為崇義公法春秋存亡繼絶之義擇才臣詣四方寛恤民力籍戸絶田租為廣惠倉以廣賑䘏募耕唐鄧廢田勸課農作守令治最者久其任以率吏課裁定令敕以省疑讞弛茶禁以便東南之民議者以謂近於三代之仁義多公所論議施行
新字:公自為相即与当時諸公同力一徳謀議制作銓補天下士所汲引多正直有名或忠厚可鎮風俗以公議用之士莫知出何人門下嘉祐四年下祫享赦事多便民者命諸路舉学行尤異篤遣詣京師館於太学試舎人院差使授官立柴氏後為崇義公法春秋存亡継絶之義択才臣詣四方寛恤民力籍戸絶田租為広恵倉以広賑䘏募耕唐鄧廃田勧課農作守令治最者久其任以率吏課裁定令勅以省疑讞弛茶禁以便東南之民議者以謂近於三代之仁義多公所論議施行
書き下し
公相と爲りしより、即ち當時の諸公と力を同じくし德を一にし、謀議制作し、天下の士を銓補す。汲引する所、多くは正直にして名有り、或いは忠厚にして風俗を鎮む可き者、公議を以て之を用う。士、何人の門下より出づるかを知る莫し。嘉祐四年、祫享の赦を下すに、事の民に便なる者多し。諸路に命じて學行尤も異なる者を舉げしめ、篤く遣わして京師に詣らしめ、太學に館し、舍人院に試み、使を差して官を授く。柴氏の後を立てて崇義公と爲すは、春秋存亡繼絶の義に法る。才臣を擇びて四方に詣らしめ、民力を寛恤す。戸絶の田租を籍して廣惠倉と爲し、以て賑䘏を廣む。唐・鄧の廢田を耕すを募り、農作を勸課す。守令の治むること最なる者は其の任を久しくし、以て吏課を率う。令敕を裁定して以て疑讞を省き、茶禁を弛めて以て東南の民に便にす。議者以謂えらく、三代の仁義に近しと。多くは公の論議施行する所なり。
現代語訳
韓琦は宰相になってから、当時の諸公と力を合わせ心を一つにして、議を練り制度を作り、天下の士を選んで任に充てた。引き上げた者は、多くは真っすぐで評判のある人、あるいは情に厚く世の風儀を落ち着かせられる人で、公の議論によって用いた。士たちは、誰が誰の門下から出たのか分からなかった。嘉祐四年(一〇五九)、合祭にともなう大赦を下したときには、民のためになる事が多かった。諸路に命じて学問と行いの特にすぐれた者を推挙させ、丁重に送って都に来させ、太学に置き、舎人院で試験し、使いを立てて官を授けた。後周の柴氏の子孫を立てて崇義公としたのは、春秋の「亡びたものを存し、絶えたものを継ぐ」義にならったものである。有能な臣を選んで各地に赴かせ、民の負担をゆるめた。相続人の絶えた田の租を帳簿に立てて広恵倉とし、救済の幅を広げた。唐州・鄧州の荒れた田を耕す者を募り、農作を勧めた。地方長官で治績の第一の者はその任を長くして、役人の勤務評定の手本とした。法令を整理し直して裁きの迷いを減らし、茶の専売の禁を緩めて東南の民を楽にした。論じる者は、三代の仁義に近いと言った。その多くは韓琦が論じて実施したものである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
尉繚子・十二陵悔いは疑わしきを任ずるに在り。
-
論語・顔淵篇樊遅、仁を問う。子曰く、「人を愛す。」知を問う。子曰く、「人を知る。」樊遅未だ達せず。子曰く、「直きを挙げて諸を枉れるに錯けば、能く枉れる者をして直からしむ。」樊遅退きて、子夏を見て曰く、「郷に吾夫子に見えて知を問う。子曰く、『直きを挙げて諸を枉れるに錯けば、能く枉れる者をして直からしむ』と。何の謂いぞや。」子夏曰く、「富めるかな言や。舜、天下を有ちて、衆に選びて皋陶を挙ぐ。不仁者遠ざかれり。湯、天下を有ちて、衆に選びて伊尹を挙ぐ。不仁者遠ざかれり。」
-
論語・公冶長篇孟武伯問う、「子路は仁なりや。」子曰く、「知らざるなり。」又問う。子曰く、「由や、千乗の国、其の賦を治めしむ可きなり。其の仁を知らざるなり。」「求や何如。」子曰く、「求や、千室の邑、百乗の家、之が宰たらしむ可きなり。其の仁を知らざるなり。」「赤や何如。」子曰く、「赤や、束帯して朝に立ち、賓客と言わしむ可きなり。其の仁を知らざるなり。」
-
論語・為政篇哀公問いて曰く、「何を為さば則ち民服せん。」孔子対えて曰く、「直きを挙げて諸(これ)を枉れるに錯(お)かば、則ち民服せん。枉れるを挙げて諸を直きに錯かば、則ち民服せず。」
-
尚書・說命中惟れ治乱は庶官に在り。官は私昵に及ぼさず、惟れ其の能のみ。爵は悪徳に及ぼす罔く、惟れ其の賢のみ。
-
論語・子路篇仲弓、季氏の宰と為り、政を問う。子曰く、「有司を先にす。小過を赦す。賢才を挙ぐ。」曰く、「焉んぞ賢才を知りて之を挙げん。」曰く、「爾の知る所を挙げよ。爾の知らざる所は、人其れ諸を舎てんや。」