宋名臣言行録 / 後集巻五・范鎮
東坡云景仁平生不好佛晚年清慎減節嗜慾一物不芥蔕於心却是學佛作家然至死不取佛法
新字:東坡云景仁平生不好仏晩年清慎減節嗜慾一物不芥蔕於心却是学仏作家然至死不取仏法
書き下し
東坡云う、景仁は平生佛を好まず。晚年清愼、嗜慾を減節し、一物も心に芥蔕せず。却って是れ學佛の作家なり。然れども死に至るまで佛法を取らずと。
現代語訳
蘇軾は言う。「景仁は生涯、仏を好まなかった。晩年は清らかに慎み、欲を減らし節し、一つの物も心に引っかかることがなかった。かえって仏を学んだ達人である。それでいて死ぬまで仏法を取り入れなかった」。
解説
三十八字の、簡潔な人物評です。到達した境地と、そこへ行った道筋を切り離しています。**晩年は清らかに慎み、欲を減らし節し、一つの物も心に引っかかることがなかった。かえって仏を学んだ達人である。**そして最後の一行で、道筋のほうを確かめました。**それでいて死ぬまで仏法を取り入れなかった。**同じところに着いても、通った道は違う。前の巻に、富弼が引退して仏老に沈み、部下に諫められた条がありました。並べて読むと、蘇軾の言い方の含みが見えます。
この章句が説くこと
景仁は平生仏を好まず晩年清慎嗜慾を減節し一物も心に芥蔕せず却って是れ学仏の作家なり然れども死に至るまで仏法を取らず晩年清慎
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