宋名臣言行録 / 後集巻五・范鎮
英宗即位中書請追尊濮王下兩制議以為宜稱皇伯公時判太常寺率禮官上言漢宣帝于昭帝為孫光武於平帝為祖則其父容可以稱皇考然議者猶非之謂其以小宗而合大宗之統也今陛下既考仁宗又考濮王則其失非特宣光之比矣凡稱帝若皇考立寢廟論昭穆皆非是於是具列儀禮及漢儒論議魏明帝詔為五篇奏之
新字:英宗即位中書請追尊濮王下両制議以為宜称皇伯公時判太常寺率礼官上言漢宣帝于昭帝為孫光武於平帝為祖則其父容可以称皇考然議者猶非之謂其以小宗而合大宗之統也今陛下既考仁宗又考濮王則其失非特宣光之比矣凡称帝若皇考立寝廟論昭穆皆非是於是具列儀礼及漢儒論議魏明帝詔為五篇奏之
書き下し
英宗即位す。中書濮王を追尊せんことを請う。兩制に下して議せしむ。以爲えらく宜しく皇伯と稱すべしと。公時に太常寺を判ず。禮官を率いて上言す、漢の宣帝は昭帝に於いて孫と爲り、光武は平帝に於いて祖と爲る。則ち其の父は容らくは以て皇考と稱す可し。然れども議者猶お之を非とす。其の小宗を以て大宗の統に合するを謂うなり。今陛下既に仁宗を考とし、又た濮王を考とせば、則ち其の失は特に宣・光の比に非ざるなり。凡そ帝と稱し、若しくは皇考、寢廟を立て昭穆を論ずるは皆是に非ずと。是に於いて儀禮及び漢儒の論議、魏の明帝の詔を具列して五篇と爲して之を奏す。
現代語訳
英宗が即位した。中書が濮王を追尊するよう願い出た。両制に下して議させた。皇伯と称すべきである、とした。范鎮は当時、太常寺を担当していた。礼官を率いて上言した。「漢の宣帝は昭帝に対して孫にあたり、光武は平帝に対して祖にあたります。であれば、その父を皇考と称してもよかったかもしれません。それでも論ずる者はやはりこれを非としました。小宗をもって大宗の統に合わせることになる、というのです。いま陛下はすでに仁宗を考とし、そのうえ濮王をも考とされるなら、その誤りは、宣帝や光武の場合の比ではありません。およそ帝と称すること、あるいは皇考とし、寝廟を立て、昭穆を論ずることは、すべて正しくありません」。そこで『儀礼』および漢の儒者の論議、魏の明帝の詔を並べ挙げて五篇とし、これを奏上した。
解説
この章句が説くこと
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尚書・周官古に學びて官に入り、事を議するに制を以てすれば、政乃ち迷わず。
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論語・先進篇顔淵死す。顔路、子の車を請いて以て之が槨を為らんとす。子曰く、「才も不才も、亦た各々其の子と言うなり。鯉や死せるとき、棺有りて槨無し。吾徒行して以て之が槨を為らず。吾大夫の後に従うを以て、徒行す可からざるなり。」
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説苑・建本子路、孔子に問いて曰わく、「請う古の学を釈きて由の意を行わん、可なるか」と。孔子曰わく、「不可なり。昔者東夷諸夏の義を慕い、女有り、其の夫死するや、之が為に内に私かに婿し、身を終うるまで嫁がず、嫁がざれば則ち嫁がざるなり、然れども貞節の義に非ざるなり。蒼梧の弟、妻を娶りて美好なれば、兄と易えんことを請う、忠なれば則ち忠なり、然れども礼に非ざるなり。今子古の学を釈きて子の意を行わんと欲す、庸ぞ子の非を用いて是と為し、是を用いて非と為すを知らんや。其の初めに順わずんば、悔いんと欲すと雖も、難きかな」と。
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論語・公冶長篇子、子貢に謂いて曰く、「女と回と孰れか愈れる。」対えて曰く、「賜や何ぞ敢えて回を望まん。回や一を聞きて以て十を知る、賜や一を聞きて以て二を知る。」子曰く、「如かざるなり。吾と女と、如かざるなり。」
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