宋名臣言行録 / 後集巻五・范鎮
仁宗即位三十五年未有繼嗣嘉祐初得疾中外危恐公獨奮曰天下事尚有大於此者乎即上疏曰太祖舍其子而立太宗此天下之大公也周王既薨真宗取宗室子養之禁中此天下之大慮也願陛下擇宗室賢者異其禮物而試之政事以係天下心章累上不報因闔門請罪
新字:仁宗即位三十五年未有継嗣嘉祐初得疾中外危恐公独奮曰天下事尚有大於此者乎即上疏曰太祖舎其子而立太宗此天下之大公也周王既薨真宗取宗室子養之禁中此天下之大慮也願陛下択宗室賢者異其礼物而試之政事以係天下心章累上不報因闔門請罪
書き下し
仁宗即位三十五年、未だ繼嗣有らず。嘉祐の初め疾を得たり。中外危恐す。公獨り奮いて曰く、天下の事に尚お此より大なる者有らんやと。即ち上疏して曰く、太祖は其の子を舍てて太宗を立つ。此れ天下の大公なり。周王既に薨じて、眞宗は宗室の子を取りて之を禁中に養う。此れ天下の大慮なり。願わくは陛下、宗室の賢者を擇び、其の禮物を異にして之を政事に試み、以て天下の心を係けよと。章累ミ上るも報ぜられず。因りて門を闔ざして罪を請う。
現代語訳
仁宗が即位して三十五年、まだ後継ぎがなかった。嘉祐のはじめ、病を得た。内外は危ぶみ恐れた。范鎮ひとりが奮い立って言った。「天下の事に、これより大きなものがあろうか」。すぐ上疏して言った。「太祖はその子を捨てて太宗を立てられました。これは天下の大いなる公です。周王が薨じたあと、真宗は宗室の子を取って宮中で養われました。これは天下の大いなる慮りです。どうか陛下、宗室の賢者を選び、その礼遇と物を別格にして、政事において試し、それによって天下の心をつなぎとめてください」。上章は重ねて上ったが返答はなかった。そこで門を閉ざして処分を待った。
解説
誰も切り出さない問題に、一人で入っていく場面です。理由が一行でした。**天下の事に、これより大きなものがあろうか。**そして先例を二つ、どちらも「実子でなくてよい」形で挙げています。**太祖はその子を捨てて太宗を立てられました。真宗は宗室の子を取って宮中で養われました。**さらに、いきなり立てよとは言っていません。**宗室の賢者を選び、政事において試し。**試用から入る案でした。返答がないと、門を閉ざしました。
この章句が説くこと
仁宗即位三十五年未だ継嗣有らず天下の事に尚お此より大なる者有らんや願わくは陛下宗室の賢者を択び其の礼物を異にして之を政事に試み章累ミ上るも報ぜられず因りて門を闔ざして罪を請う後継決意
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