宋名臣言行録 / 後集巻五・彭思永
權御史中丞時追崇濮國大號復有稱親之議諌官相繼論列者六七人皆以罪去公力陳其不可且請召還言事者上未之察更為疏極論其事英宗深加聴納事幾施行而大臣持之甚力故不果
新字:権御史中丞時追崇濮国大号復有称親之議諌官相継論列者六七人皆以罪去公力陳其不可且請召還言事者上未之察更為疏極論其事英宗深加聴納事幾施行而大臣持之甚力故不果
書き下し
權御史中丞たる時、濮國の大號を追崇し、復た親と稱するの議有り。諫官の相い繼いで論列する者六七人、皆罪を以て去る。公力めて其の不可を陳べ、且つ言事者を召し還さんことを請う。上未だ之を察せず。更に疏を爲して極めて其の事を論ず。英宗深く聽納を加え、事幾ど施行せんとす。而して大臣之を持すること甚だ力む。故に果たさず。
現代語訳
臨時の御史中丞であったとき、濮国の大きな称号を追贈し、さらに「親」と称する議があった。諫官で相次いで論じ立てた者六、七人は、みな罪に問われて去った。彭思永は力を尽くしてその不可を述べ、そのうえで意見を述べた者を召し戻すよう願った。天子はまだそれを聴き取らなかった。あらためて上疏してその件を突き詰めて論じた。英宗は深く聴き入れ、事はもう少しで実行されるところであった。しかし大臣がそれを押さえることが、たいそう力強かった。だから実現しなかった。
解説
諫官が六、七人まとめて処分された後の場面です。彭思永は二つのことを同時に願いました。議そのものの不可と、追われた人たちの召還です。**そのうえで意見を述べた者を召し戻すよう願った。**そして一度で終わらせず、二度目を出しています。天子は動きました。**英宗は深く聴き入れ、事はもう少しで実行されるところであった。**止まったのは天子ではありません。**しかし大臣がそれを押さえることが、たいそう力強かった。**
この章句が説くこと
諫官の相い継いで論列する者六七人皆罪を以て去る公力めて其の不可を陳べ且つ言事者を召し還さんことを請う英宗深く聴納を加え事幾ど施行せんとす而して大臣之を持すること甚だ力む故に果たさず濮議諫官
関連する章句
-
『宋名臣言行録』後集巻五・彭思永公侍御史と爲り、内降の官資を授くるの弊を極論す。以謂えらく、斜封は公朝の事に非ずと。仁宗深く之を然りとす。皇祐、明堂を祀るの前一日、赦の語を傳えて百官皆秩を遷るを得る者有り。公方に駕に從いて景靈宮に宿す。亟かに上言す、宜しく濫恩を以て僥倖を益すべからずと。既に赦を肆べて果たして然り。時に張堯佐は妃族を以て進み、王守忠は親しく帷幄に侍するを以て寵を被る。參政員を缺き、堯佐朝暮に命を待つ。守忠も亦た節度使と爲らんことを求む。公抗疏極言して、至りて曰く、陛下此の覃恩を行うは孤寒に意無く、獨り堯佐・守忠の爲なり。故に衆人を取り悦ばすのみと。且つ言う、妃族の政を秉り内臣の事を用うるは皆國家の福に非ずと。疏入りて仁宗震怒す。諫官吳奎等上の爲に其の忠を言う。上の怒り解く。
-
『宋名臣言行録』後集巻五・彭思永御史蔣之奇、大臣の陰事を奏發し、公を援きて助けと爲さんと欲す。乃ち曰く、公嘗て之を言えりと。公も亦た謂う、帷簿の私は外人の知る所に非ず。誠に究詰し難し。然れども亦た以て之を取る有り。故に謗言一たび興りて人以て信と爲す。且つ其の首めて濮園の議を爲し、典禮に違いて衆怒を犯す。宜しく更に政府に在るべからずと。執政、之奇の論ずる所を□昧にして質す可からずと以て、公に其の從來する所を言えと迫る。三たび問うも公の奏益ミ急なり。且つ曰く、風聞は以て聰明を廣むるなり。今必ず其の從來する所を問い、因りて之を罪せば、則ち後に聞くこと無からん。寧ろ重謫を甘んじ、敢えて國家の言路を開くの法を廢せずと。因りて極めて大臣の朋黨專恣にして國家の計に非ざるを陳ぶ。翌日、給事中に降授せられて黄州を知す。
-
『宋名臣言行録』後集巻十・彭汝礪罷めて館閣校勘・江西運判と爲る。辭する日、復た上疏して時事を論じ、且つ言う、今將順の臣無きを患えず、諫爭の臣無きを患う。敢えて爲すの臣無きを患えず、敢えて言うの臣無きを患うと。神宗其の忠を察し、慰諭すること久し。
-
『宋名臣言行録』後集巻五・吕誨覺の余に語るは、時に正月初五六の間なり。後數日、果たして臺官の濮王の事を論ずること甚だ急なるを聞く。上元の後に至り、誨等の疏已に七八たび上るも聽かれず。遂に皆勅告を納れて罷め去らんことを求め、家居して復た職に供せず。
-
『宋名臣言行録』後集巻五・彭思永苟くも大倫を亂さば人理滅ぶ。陛下は仁廟の子なれば、則ち父と曰い考と曰い親と曰うは乃ち仁廟なり。若し更に濮王を稱して親と爲さば、是れ二親有り。臣以爲えらく、當に濮王の子を以て爵を襲ぎ祀を奉ぜしめ、濮王を尊稱して濮國太王と爲すべし。凡百の禮數は必ず皆情に稱わん。借如し既に嗣襲を置かば必ず祭告を伸べん。當に姪嗣皇帝名、敢えて昭かに皇伯父濮國太王に告すと曰うべし。自然に濮王に在りては尊崇の道を極め、仁皇に於いては嫌貳の失無からん。
-
『宋名臣言行録』後集巻五・彭思永荊湖北轉運使と爲る。部に至りて奏して守令の殘暴・疲懦なる者各ミ一人を罷む。而して八州勸むるを知る。時に大農利を以て諸路を誘い、羨餘を以て獻ぜしむ。公曰く、民より裒めて賞を取るは吾忍びて爲さずと。遂に獻ずる所無し。