宋名臣言行録 / 後集巻五・吕誨
温公退自經筵黙坐玉堂終日思之不得其説既而搢紳間寖有傳其章疏者往往竊議其太過未幾變更祖宗法専務聚歛百姓騷然然後前日之議者始愧仰歎服以為不可及而公終縁兹事出知鄧州温公退居洛陽每論當世人物必曰吕獻可之先見范景仁之勇決皆予所不及心誠服之
新字:温公退自経筵黙坐玉堂終日思之不得其説既而搢紳間寖有伝其章疏者往往竊議其太過未幾変更祖宗法専務聚歛百姓騷然然後前日之議者始愧仰嘆服以為不可及而公終縁茲事出知鄧州温公退居洛陽毎論当世人物必曰呂献可之先見范景仁之勇決皆予所不及心誠服之
書き下し
溫公經筵より退き、玉堂に黙坐して終日之を思うも、其の説を得ず。既にして搢紳の間に寖く其の章疏を傳うる者有り、往往にして其の太だ過ぐるを竊議す。未だ幾ならずして祖宗の法を變更し、專ら聚歛に務む。百姓騷然たり。然る後に前日の議者始めて愧じ、仰ぎ歎服して以て及ぶ可からずと爲す。而して公は終に茲の事に縁りて出でて鄧州を知す。溫公洛陽に退居し、毎に當世の人物を論ずれば必ず曰く、呂獻可の先見、范景仁の勇決は皆予の及ばざる所なりと。心に誠に之に服す。
現代語訳
司馬光は経筵から退き、玉堂に黙って座って一日中これを考えたが、その理屈をつかめなかった。やがて官人のあいだに、しだいにその上疏を伝える者が現れ、しばしばそれが行き過ぎだと陰で議論された。ほどなくして祖宗の法が変更され、もっぱら取り立てに努めるようになった。民は騒然となった。そのあとで、以前とやかく言っていた者たちははじめて恥じ、仰いで感服し、及びもつかないとした。そして呂誨はついにこの一件によって外に出て鄧州の知事となった。司馬光は洛陽に退いて住み、当世の人物を論じるたびに必ず言った。「呂献可の先見、范鎮の勇決は、いずれも私の及ばないところである」。心からこれに服した。
解説
分からなかったことを、分からなかったまま書き残しています。**玉堂に黙って座って一日中これを考えたが、その理屈をつかめなかった。**同時代で最も学のある人が、一日考えて追いつけなかった。世間の反応も同じでした。**しばしばそれが行き過ぎだと陰で議論された。**そして時間が経ってから、答え合わせが済みます。**以前とやかく言っていた者たちははじめて恥じ、仰いで感服した。**認め方が徹底しています。**呂献可の先見は、私の及ばないところである。**
この章句が説くこと
温公経筵より退き玉堂に黙坐して終日之を思うも其の説を得ず往往にして其の太だ過ぐるを竊議す未だ幾ならずして祖宗の法を変更し専ら聚歛に務む百姓騷然たり呂献可の先見范景仁の勇決は皆予の及ばざる所なり先見理解
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