宋名臣言行録 / 後集巻五・吕誨
范純仁等欲起供職公曰稱親猶為吾徒言不用也遂以前後所上九疏乞付中書求去而誨等遂皆絀矣
新字:范純仁等欲起供職公曰称親猶為吾徒言不用也遂以前後所上九疏乞付中書求去而誨等遂皆絀矣
書き下し
范純仁等起ちて職に供せんと欲す。公曰く、親と稱するは猶お吾が徒の言の用いられざるが爲なりと。遂に前後上る所の九疏を以て中書に付し、去らんことを求む。而して誨等遂に皆絀けらる。
現代語訳
范純仁らは立って職に復そうとした。呂誨は言った。「親と称することは、やはり我らの言葉が用いられなかったということだ」。そこで前後に差し出した九通の上疏を中書に回して、辞去を願い出た。そして呂誨らはついに全員退けられた。
解説
皇と称する件は取りやめになりました。抗議した側の勝ちに見えます。仲間は復職しようとしました。呂誨だけが動きません。**親と称することは、やはり我らの言葉が用いられなかったということだ。**皇はやめたが、親と呼ぶことは残っている。そこが本来の争点だった、と。妥協点で手を打つと、次はその妥協点が出発点になります。全員が退けられて終わりました。譲れる線と譲れない線を、最後まで動かさなかった記録です。
この章句が説くこと
范純仁等起ちて職に供せんと欲す親と称するは猶お吾が徒の言の用いられざるが為なり遂に前後上る所の九疏を以て中書に付し去らんことを求む而して誨等遂に皆絀けらる妥協線
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